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本門佛立宗を破す

諸宗教破折
3/26/2018

[ 創 始 者 ](開導)長松日扇(清風)
[ 立 教 ]安政四(一八五七)年、本門佛立講として開講 昭和二二年「本門佛立 宗」として本門法華宗から独立
[ 本 尊 ]日扇自筆の要法本尊
[ 経 典 ]妙法蓮華経開結十巻
[ 教 典 ]高祖日蓮大士遺文(特に『観心本尊抄』『四信五品抄』『如説修行抄』用いる)
     門祖日隆、開導日扇の著述
[ 本 山 ]宥清寺 京都市上京区御前通一条上ル東竪町一一〇
[ 寺 院 ・教会数 ]三三六
[ 教 師 数 ]七九一
[ 信 徒 数 ]三八五、四九二

【沿 革】
本門佛立宗(ぶつりゅうしゅう)は、長松日扇(にっせん)(一八一七~一八九〇)が京都ではじめた在家組織「本門佛立講」を起源とし、今日の在家主義新興宗教の原形といわれる教団である。
「本門佛立宗」の宗名は、日扇が『法華初心成仏抄』の「法華経をば仏立宗と云ひ、又は法華宗と云ふ」(新編一三〇七)との文によって、「別にわれと一宗を開くに非ず、仏説のままを宗祖立てさせられて本門佛立宗也」(日扇上人全集)と、名乗ったものである。
日扇は、もともと八品派(本門法華宗)の僧侶として出家したが、まもなく教団に対する不信から還俗(げんぞく)し、後に在家のみによる信仰組織を起こし、独自の本尊や教義を立て、病気なおし等の現世利益中心の布教をすすめ、教線を伸ばしていった。この間、日扇が信仰の変節をするたびに教団に内紛が起こり分裂し、現在に至っている。
日扇は、江戸末期の文化一四(一八一七)年に京都で生まれた。幼名は大路仙二郎といい、幼い頃より書画や和歌を学び、雅号を長松清風と称した。
天保一三(一八四二)年、二五歳のとき、母と死別して出家を志し、二九歳のとき、本能寺(本門法華宗)の秀典日雄の教化で入信し、嘉永元(一八四八)年、三二歳のとき、淡路隆泉寺の無著日キ(光編に、曜の右側の文字)を師として出家した。
しかし、中年での出家を理由に、本興寺にある尼崎檀林への入檀を拒否された清風は、当時の保守的な教団に失望して東山の西行庵に退き、同志と布教生活を送ることとなった。
ここでも、清風の折伏布教が周囲の反感を招き、やがて西行庵を追われ、その後も住居を転々とした末、ついに還俗して「禅門清風」と称し、在家の立場で教団の改革を決意した。
当時、宗内では、信行なき地獄・餓鬼・畜生も成仏できると主張する「皆成派」(本山側)と、成仏は信行を実践できる人界の衆生に限ると反発する「久遠派」(改革派)との論争が激化していた。なかでも高松藩主松平頼儀の庶子である頼該(よりかね)は、全国に講員三、一〇〇余名・五三の組織を持つといわれた在家組織・高松八品講の中心者として、本山側(本門法華宗)の番神雑乱、葬式仏教化、唱題軽視に対して反発し、刷新運動を展開していた。
同じ反教団という立場にあった清風と頼該は、互いに共鳴して親交を結び、安政三(一八五六)年一一月、清風は頼該に招かれて高松に赴き、大いに感化された。そして翌年一月、清風四二歳のとき、京都蛸薬師の谷川浅七宅で華洛八品講を起こし、「佛立講」と称した。これが、今日の本門佛立宗の起源である。
開講後の清風は、難しい法門を説く僧侶に対抗して現証を中心とした「現証利益主義」を唱え、頼該の政治的庇護を利用しながら徹底した在家主義を主張した。その後も、清風は高松八品講と深く関わりながら、信仰のあり方を判りやすく説いた独自の「教歌」を用いて、当時の既成教団を痛烈に批判し、京都、大津、大阪の商人を中心に教線を伸ばしていった。
しかしその後次第に、高松八品講より清風の現世利益中心の布教法や、清風の頼該に対する態度をめぐって批判の声が高まり、文久元(一八六一)年、頼該は清風と義絶している。
その翌年、清風は大津に法華堂(現・佛立寺)を開き、ここに講の本拠を移したが、頼該という後ろ盾を失った清風は、慶応元(一八六五)年、大津の諸宗六四箇寺より「切支丹の邪法を行い、在家の身で法を説く不審者」として訴えられ、取り調べを受けた。明治元(一八六八)年には、再び大津の諸宗に告訴された、数名の弟子や幹部とともに投獄された。
このとき、維新直後の京都府知事は全員を無罪にしたうえ、清風に対して再出家と寺院止住を条件に布教活動を許可し、五日間で赦免した。赦免後、清風はこれまで強弁してきた三途不成の主張や、曼茶羅の書写・授与を止めて本門法華宗に従う旨の誓約書を提出することで再出家を許され、同じく明治元年の九月に本能寺塔中の竜雲院に入り、講の再建にかかった。
その翌年、清風は無住であった妙蓮寺末の宥清寺(京都北野)を借り受け、再び寺に入ったが、これを契機に清風の信仰は変質し、これまで主張してきた僧侶否定の純粋在家主義から、僧侶と寺院をもつ出家主義へと大きな変貌を遂げていった。また、病人に「御供水(おこうすい)(仏壇に供えた水)」を飲ませる「病気治し」などの現世利益をさらに強調し、法華宗とは一線を画した独自の信仰を打ち出していった。
明治一〇(一八七七)年、還暦を迎えた清風は、宗祖の曼茶羅を書写した従来の本尊を止め、自ら一遍首題の題目に脇書を書き、これを「要法本尊」と称して講員に配布しはじめた。
また、翌年には「本門佛立妙講一座」という法要式を制定して独立に向けての準備を進め、やがて佛立講は三三組、信徒一〇、〇〇〇人という規模にまで発展した。さらに同一五(一八八二)年、宗祖六〇〇遠忌を終了した頃から、清風は「読誦謗法・口唱専一」と、「番神雑乱・別勧請本尊への参拝禁止」を講員に徹底し、大胆な改革を実行した。しかし、本山妙蓮寺の貫主にさえ強言を吐く清風に対し、これは反発する多くの講員が離反し、佛立講の教勢は三分の一にまで激減したといわれる。明治一六(一八八三)年一一月、この事態を憂虜した主要幹部五〇余名は、清風に対して宥清寺からの退去要求を突きつけ、その三ヵ月後、清風は止むなく宥清寺を出て、綾小路の私宅(現・長松寺)に退いた。
ここで晩年を過ごした清風は、明治二三(一八九〇)年七月、大阪に向う途中、七四歳で急逝し、遺言によって第二世講有(後継者)には、御牧日聞が就いた。
清風の没後、本山妙蓮寺は佛立講に対して本尊書写の禁止や読誦謗法の主張の撤回を迫り、教団は苦境に立たされた。しかし、明治三一(一八九八)年四月、妙蓮寺との対立を不利と見た佛立講は、講員による妙蓮寺団体参詣を実施して協調路線をとり、関係修復を図った。
これによって両者は互いの目論見を持って歩み寄り、一気に和融共存の道を進んでいった。
翌三二(一八九九)年、本門法華宗は清風に対して「日扇上人」の諡号を送り、また、明治三七(一九〇四)年五月には、二世講有の御牧日聞が上総の鷲山寺貫主に就任、半年後に管長となり、六年後には京都妙蓮寺の貫主に迎えられ、三世講有の野原日隨も妙蓮寺貫主となり、同四五(一九一二)年、本門法華宗は、再び日扇に対して大僧正位を追贈した。
このように本門法華宗が佛立講の組織力に依存する一方で、佛立講は着実に本門法華宗内での勢力を広げ、本来の在家主義から僧侶主導へと、大きな変貌を遂げていった。
この頃から、変質した佛立講に対し、純粋な在家組織を目指す一部僧俗は反発して、次々に教団を離れて分派していった。その主なるものは、次のとおりである。
「大日本獅子吼教会」大正二(一九一三)年、大塚日現が創立(法華宗本門流所属)
「在家日蓮宗浄風会」大正五(一九一六)年、多羅尾清車が創立(事務所 東京都文京区千駄木)
「本門経王宗」大正一一(一九二二)年、麻生日宏が創立(事務所 東京都調布市緑ヶ丘本山・日宏寺)
「日蓮主義佛立講」昭和三(一九二八)年、橋本日種が創立(事務所 愛知県春日井市松新町)
大正八(一九一九)年、清風の再出家以後、寺院と僧侶を持つようになった佛立講は積極的に僧侶を養成して自立を目指し、教線を拡大していった。その結果、昭和九(一九三四)年、宗内で「佛立講特別教区制」が実施され、佛立講は講有を中心とした自治権を獲得した。
そして終戦後の昭和二二(一九四七)年三月、本門法華宗(旧八品派)から独立して「本門佛立宗」と改称し、昭和二七(一九五二)年、宗教法人を設立して現在に至っている。
日常信仰活動の特徴としては、毎月の「お講(お講席)」が挙げられる。これは各地域の「組」と呼ばれる信徒のグループが、寺院の出先である信徒宅の拠点に集まり、法事・祈願・聴聞などを自主的に行うもので、清風が佛立講を開講以来、最も重視してきたものである。佛立宗では「お講」を開催できる信徒は信心強盛とされ、信徒に対し、盛んに「お講願主になれるように」と、物心両面の指導をしている。
また、初信者への指導や病気治し等の手助けをすることを「お助行」と呼び、仏前に「御供水」と呼ぶ水を供えて「御看経(おかんきん)(拍子木を打ちながらの唱題)」の後、この水を飲めば病気が治る等、常に現世利益を説き、組織の維持と布教を行っている。
また、大聖人を高祖大士、日隆を大聖人の後身として門祖、日扇を「開導」と呼んで「三祖」と仰いでいるが、実際には清風が残した三、三八〇余首にのぼる「教歌」をはじめ、俳句、詩、今様、謡曲、長唄、地唄、いろはがるたに至る、さまざまなものを教えの根本として教化活動に用いている。

【教義の概要】
日扇の教学は、日扇が本門法華宗の僧として出家してから、還俗、再出家を経て佛立講をはじめた日隆教学中心の前期と、還暦を契機に「要法本尊」を自作し、本門法華宗からの独立を目指して独自の教学を創り上げた後期とに区別できる。
その特徴を一言でいえば、日扇と生涯対立関係にあった本門法華宗に対する体制批判から生まれた改革教学であり、既成宗教の難しい教義や信仰を切り捨て、信徒中心の判りやすい教えと信仰を目指した新興宗教の先駆といえる。
〈要法本尊と口唱専一〉
佛立宗では、宗祖自筆の曼茶羅を「雑乱勧請の広式本尊」と否定し、日扇が自作した「要法本尊」のみを信仰の対象としている。これは日扇が、中央に題目、その左右に「三箇秘法之中一大秘法」「本門肝心上行所伝」と脇書したものであり、明治一〇年に還暦を迎えた日扇が、「本尊書写は貫主に限る」などの制約を受けていた本門法華宗からの独立の宣言書ともいえる。
また、日扇は本門法華宗で行っていた一部読誦に対し、「題目で御布施がとれぬもの故に在家のしらぬ御経よむなり」と批判し、難しい読誦は信徒の信心の妨げになるとして、その翌年に「本門佛立妙講一座」という唱題中心の法要式を発表し、講員に徹底した。
現在も法要・勤行は、これに従って行われており、要法本尊に向かって拍子木を鳴らしながら題目のみを唱える「口唱専一」を正行とし、これを「事行の題目」と称している。
〈現証利益主義〉
日扇は「法の浅深・勝劣・邪正は現証利益の有無に依って自ら知るなり」と述べ、教学や法門は理談に過ぎず、智恵による信仰を嫌った。自ら「佛立宗は無智宗なり」といい、「現証利益こそ事の法門である」と説いて、信仰の目的、正邪の基準、功徳のすべてを現世利益に結びつけたところに、この教団の特徴がある。

【破折の要点】
■日扇自作の「要法本尊」は、宗祖の正意に非ず
佛立宗では日扇自作の「要法本尊」を本尊と立て、曼茶羅に十界を顕すことを雑乱勧請・別勧請といって嫌い、さらに十界互具の曼茶羅は宗祖の本意ではないと主張している。
しかし、宗祖が『観心本尊抄』『報恩抄』『日女御前御返事』をはじめ諸御書に明示された正意の御本尊は、十界互具の曼茶羅本尊である。別して『聖人御難事』には、
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余 年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給 ふ(中略)余は二十七年なり」(新編一三九六)
と明示されているとおり、宗祖の出世の御本懐は、弘安二年一〇月一二日御図顕の戒壇の大御本尊であることは明らかである。
これに対し、佛立宗が立てる「要法本尊」は、明治一〇年に本門法華宗から曼茶羅の書写・授与を禁止された日扇が、法華宗からの独立を目指して、自ら一遍主題の左右に文字を並べたものを自作し、これを勝手に「要法本尊」と称したに過ぎない。
日扇の自作だけに、宗祖の御書のどこを探しても「要法本尊」という言葉すらなく、宗祖の認められた曼茶羅御本尊とは似ても似つかぬお粗末さである。にも関わらず、かえって宗祖が「日蓮が魂」と仰せられた大曼茶羅を雑乱勧請の謗法本尊と下すこと自体、大聖人本意の御本尊を否定する大謗法であると同時に、自ら門祖と仰ぐ日隆の教えにも敵対する愚論である。

■佛立宗の「口唱専一」は大聖人に背く
佛立宗では法華経の読誦を謗法であると主張しているが、大聖人は『月水御書』に、
「されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品 の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」(新編三〇三)
と、日々の助行として『方便品』と『寿量品』の読誦を御教示されている。門祖の日隆も「日蓮薩埵も又、方便品と寿量品と二の略門修行、之れ有り」(十三問答抄)と認めている。その経文読誦を謗法と下し、拍子木を鳴らして題目さえ唱えればよしとする佛立宗の「口唱専一」は、本門法華宗の煩雑な一部読誦の修行を嫌った日扇が、宗祖の実践された正助の二行を勝手に省略し、題目だけにした怠慢行に過ぎない。
宗祖の化儀化法を我見で解釈し、勝手に作った「要法本尊」と「口唱専一」の修行を説く佛立宗は、修行ひとつを見ても師敵対の輩であり、謗法を謗法と恐れぬ日扇が勝手に作った「我立宗」にほかならない。

■自ら証明する「三祖血脈」のあきれた実態
佛立宗では、日蓮‐日隆‐日扇と連なる「三祖血脈」なるものを主張して、宗祖以来の正統を宣伝しているが、その具体的な証拠や説明は何もない。
現実には、大聖人と日隆には百数十年の隔たりがあり、さらに数百年も下った日扇への血脈相承や相伝などあり得るはずもない。
逆に、日扇は信仰の根幹である本尊について、大聖人の正意たる曼茶羅本尊を否定し、勝手に自作の「要法本尊」を用いたり、また修行についても、大聖人が御教示された方便・寿量の二品読誦に対して、日隆は「一部読誦」、日扇は「口唱専一」などと、本来師弟一体であるべき本尊・教義・修行に水火の相違を生じている。
この実態のどこに、大聖人の血脈が存するというのであろうか。

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