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御書を軽視する増上慢(ぞうじょうまん)の邪師 顕正会

諸宗教破折
12/2/2017

日蓮大聖人は、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし」(御書 一四五七㌻)

と、信仰を貫く上においての慢心と、僧侶軽視の姿を堅く戒められている。
顕正会会長・浅井昭衛は、まさにこの御金言に示される謗法の姿を地で行く者と言えよう。その結果、唯授一人の血脈まで否定し、事実上、顕正会を、本門戒壇の大御本尊に弓を引く大謗法団体へと仕立て上げたのである。

御書を拝せない会員
この御文の他にも、浅井ら顕正会の現状を破折する御金言はあるが、不幸なことに、会員のほとんどがそれを拝することができない。
以前、顕正会で御書を発刊しようとしていたことがあるが、能力不足によるのか、それは実現していないため、独自の御書がないのである。
そのため、会員は、浅井の指導の中の、恣意的(しいてき)に解釈され、切り取られた御文のみしか知ることがない。もしかすると、顕正会の金科玉条(きんかぎょくじょう)である「国立戒壇」の語が、御書中にあると思い込んでいる者も多いのではなかろうか。
故に、浅井の邪義がいかに大聖人の御法門に反したものか判らず、浅井の指導がそのまま大聖人の御意(ぎょい)と捉(とら)えている現状がある。
それは顕正会新聞に載る会員の「代表決意」などを見ても明らかである。

顕正新聞は浅井の願望
発表者のほとんどが「先生は・・・・とおっしゃっている」と、浅井の言葉を引用し、
「偉大な師匠の下、崇高な御奉公に連なり得る宿縁の有難さに、咽(むせ)び泣く思いになりました」
「無二の師匠・浅井先生に、断じてお応えしてまいる決意であります」
(いずれも顕正会新聞 平成二十九年十五日付)
と、あたかも御本仏大聖人の如くに浅井を持ち上げているのである。
しかも、同じ紙面に七、八人の決意が掲載されているが、内容はほぼ同じであり、洗脳されているかのような状況が窺(うかが)える。
そもそも、元会員の方の証言によれば顕正新聞の発行に関しては浅井自身が逐一、目を通しているそうである。
要は顕正新聞とは仏(大聖人)のように敬(うやま)われたい浅井の願望を垂(た)れ流したものであると言っても過言ではない。

御書よりも浅井の著作?
それは浅井の著作に対する扱いにも表れている。
浅井の著とされる『折伏理論解説書 日蓮大聖人の仏法』は、顕正会の教学試験でのテキストとして用いられていた。そして、会員の発言には、
「もっと命に染めさせて頂きたいとノートに書き出し、繰り返し拝読してまいりました」(同紙 平成二十六年二月五日付)
というものまであり、会内では御書のように位置づけているのである。
また、一昨年発刊した『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』に関しては、新聞広告をカラーコピーして配っているというが、それについて浅井は、
「広告のカラーコピーを読み、あるいは聞かされ、『なんと不思議なことがあるのか』と言って入信する人も多い」(同紙 平成二十九年九月十五日付)
などと、広告まで自画自賛する始末である。
この「御書よりも浅井の著作」といった実状は、まさに浅井の意向を反映させたものであり、増上慢の姿そのものである。

大作になりたい浅井
創価学会が「池田先生は第二の法華経の行者」だとか「『人間革命』は現代の御書」と嘯(うそぶ)くのと同様に、
「浅井先生の言葉は大聖人の言葉」「浅井先生の著書は現代の御書」とでも言いたいのであろう。
浅井は「第二の池田大作」になりたいのだ。
顕正会員は一刻も早く、増上慢の邪師・浅井のもとを離れ、正信に帰(き)すべきである。

(大白法第九七〇 平成二十九年十二月一日)

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