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“遥拝”という顕正会の邪義ー顕正会

諸宗教破折
 数年前、総本山境内にて顕正会員を折伏していた時のこと。 奉安堂のほうへ案内しようとすると、
「大御本尊を拝するのは不敬」 「罰が当たる」等と言ってきた。
「あなたは法華講員ではないから内拝できません。でも、せっかくだから、あなた方が遥拝してい
る本門戒壇の大御本尊様のそばまで行きましょう」と誘うと、「近づいてはいけないと言われている」、「遥拝が根本だから必要ない」等と言って帰っていった。
遥拝は根本にあらず
 自分たちが「信じている」という大御本尊を遠ざけ避けて近づくこともしない。全く、よく判らない
理屈である。
 顕正会の浅井昭衛は、
「遥拝勤行とは、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる
勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである。
 遥拝勤行において大切なことは、我が家と戒壇の大御本尊といかに距離があろうとも、眼前に大

御本尊まします、直接拝みまいらせる、との思いに立つことである」(日蓮大聖人の仏法 一一三
等と述べている。
 遥拝の意味するところは、本来、直に拝すべき対象がそばにない状況などで、やむを得ず行うという
ことだ。
 本宗においては、御授戒を受けた人が自宅に御本尊を安置できる環境が整うまでの期間、暫定的な措置として、大石寺に向かって朝タの勤行等を行うことがある。しかし当然、それが本来の化儀であろうはずはなく、あくまでも御本尊を安置して拝すことが根本である。
浅井の無知な解釈
 また、浅井は遥拝勤行が正しいとする根拠として、日蓮大聖人が千日尼へ宛てた、
「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来たれり。(中略) 御面を見てはなにかせん。 心こそ
大切に候へ」(御書 一二九〇ページ)
との仰せを挙げる。
 しかし、この御教示は阿仏房を身延の大聖人のもとへ送り出した千日尼の志を讃えられたもので、遥拝勤行の証文にはならない。
 この御手紙を頂戴する以前に、阿仏房・千日尼夫妻が既に大聖人から御本尊を賜っていることは、
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。(中略)夫婦ひそかにがませ給へ」(同七
九三ページ)
との仰せに明らかである。つまり、夫妻は遥拝ではなく、賜った御本尊に向かい日々勤行・唱題されていたのである。
 会員たちが大聖人の仰せを知らないのをいいことに、都合よく解釈したのか、はたまた己の無知の露呈か。 いずれにせよ、御本尊を目の当たりに拝することを差し置いて、遥拝こそ正しいとする仰せなど、御書のどこにも見当たらない。顕正会の言う遥拝の正義など、どこにもないのだ。
須弥山に近づく鳥は金色となる
浅井は遥拝の我意を浸透させるために、「不敬の開扉」「御開扉は金儲け」と等と言って御開扉を否定する。いろいろ御託を並べるのは、大御本尊に御目通りできない喪失感を隠そうとする目眩ましに過ぎない。
 顕正会が解散処分を受けて既に半世紀近く。 戒壇の大御本尊を拝したことがない者も大勢いるだろう。 遥拝勤行をする時に、果たして彼らは何を思い浮かべるのだろう。会館の偽本尊か。浅井の顔か。いずれにしても、大石寺に在す大御本尊を正しい心で遥拝できる者は、顕正会に一人もいない。
 御開扉で我々は、大聖人に御目通り申し上げる。
「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、は
げむべし」(同一五〇二ページ)
との御金言を肝に銘じ、総本山へ登山参詣して、御法主上人の御許しのもと本門戒壇の大御本尊の御開扉を賜り、内拝させていただくことが最も尊いのである。
 一日も早く、すべての会員が顕正会を脱し、大御本尊の功徳に浴することができるよう、我々は折伏に精進していこう。
(大白法令和4年11月1日号より転載)

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