どの宗教が正しいのか自分で確かめたい。
現在、日本における宗教法人の総数は数十万もあるといわれています。
これほど多くの宗教を、実際に自分の目で善悪を確かめたいといってもそれは不可能なことです。
またそのなかで仏法の教えは特に難信難解(なんしんなんげ)であり、体験の世界でもありますから、私たちがただ頭で宗教の正邪を理解しようとしても、十年、二十年、または一生涯を費(つい)やしてもできることではありません。結局はどの宗教が正しいのかもわからず、信仰の道に入ることもできないでしょう。
たとえば川を渡ろうとする人が橋の手前で、この橋はいつ、誰が作ったのか、材料はなにか、今までこわれたことはないか、などと詮索し続けて、結局向う岸に行きつくことができなかったという話があるように、すべてのものごとに対して、理解し納得しなければ信用しないという人は、一日たりとも生活できなくなるでしょう。時には批判し、詮索(せんさく)することも必要ですが、元来仏教に限らず、すべて宗教は信ずることから始まります。法華経には、
「信(しん)を以って入ることを得たり」(譬喩品第三・開結175頁)
とあり、日蓮大聖人は、
「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事・御書1388頁)
と教示されています。
また日蓮大聖人は、
「有解無信(うげむしん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(新池御書・御書1461頁)
と説かれて、たとえ仏法の教義を理解できる人であっても、信ずる心のない人を救うことはできないと教示され、さらに、
「法華本門の観心の意を以て一代聖教(いちだいしょうぎょう)を按(あん)ずるに菴羅果(あんらか)を取って掌中に捧ぐるが如し」(十法界事・御書176頁)
と仰せられ、真実の仏法を信ずるとき、一切の宗教の浅深は、あたかもたなごころを見るように明らかになるのであると説かれています。
正しい御本尊を信受し修行することによって、あなたの真実を求め、見きわめる力は、より正しく発揮され、人生に大きく役立ってゆくことでしょう。