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信仰を求めるのは病人や貧乏人ばかりではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 仏法は、人間が本質的に直面しなければならない苦悩を解決するために説き明かされたものですから、苦しみ悩む人が救いを求めて信仰に入ることは当然のことです。
 信仰を求める動機は、主として直接的に日常生活の支障となる病気や経済苦が挙げられますが、そのほかに最近では子供の教育問題や職場の人間関係、家庭不和、将来への不安なども多くなっています。
 人間は誰でも、苦しみや困難にあったとき、はじめてその原因を考え、よりよい解決方法と再び失敗しない方法について、思いめぐらすのではないでしょうか。
 事実、自分はこれでよしと思って進んできたが、その結果が思わしくなく、さまざまな問題が起きて身動きができなくなって、はじめて我が身をふり返り、自己の信念や努力だけでなく、人生の土台として正しい信仰が必要であったことに気付いたという人も多いのです。
 また、日蓮大聖人は、
「病によりて道心はおこり候か」(妙心尼御前御返事・新編九〇〇)
と仰せられ、病苦が信仰心を起す原因になるとも説かれています。
 しかし、入信の動機がいずれにせよ、それによって正しい教えにめぐり会い、正境(正しい本尊)に縁することに重大な意義があるのです。
 妙楽大師は、
「縦使、発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し」
(止観会本上一七五)
と、発心の動機がどうであっても、正境に縁することが大きな功徳になると説いています。
 入信する時の一面だけを見て、やれ病人だ貧乏人ばかりだ、と非難することは、仏法の功徳力を知らない者の愚かな行為といわざるをえません。
 大切なことは、いかに多くの人が正しい仏法によって病苦や経済苦を克服し、力強い人生を築いているかという現実を知ることであり、いかなる境遇の人も必ず幸せになっていく日蓮大聖人の仏法が存在していることを知るべきです。
 大聖人は、
「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(経王殿御返事・新編六八五)
と仰せられています。
 さらに法華経には、
「無上の宝聚 求めざるに自ら得たり」(信解品第四・法華経一九九)
と説かれています。これは無上の宝である成仏の境界は自ら意識して求めずとも、正境に縁することによって自然に得られるというのです。また伝教大師は、正法を信じ行ずる道心こそ真実の国の宝であると讃えています。この道心の動機が病気であっても、経済苦であっても、なんら恥ずべきことではありません。むしろ自他ともに幸福を得るための大切な入り口となるのです。

【折伏実践のために】

人間の宿業に対する自覚
 信仰を求めるのは病人と貧乏人だけだと決めつけるのは間違いです。
 日蓮正宗の信徒の中には、健康で経済的にも恵まれていても、世のため、人のために尽くしたいという利他の心から、あるいは人格形成の上から正しい信仰を求めて入信された方々がたくさんおります。
 世の中の多くの人は病気や生活上の貧困といった様々な悩みを持っていますが、人間の抱える苦悩をもっと掘り下げて見るならば、迷いの衆生は皆、謗法ほうぼう(正法に背くこと)や三毒(貪むさぼり・怒り・無知)の心で病み、心が貧困なのだということです。
 正しい信仰とはこうした人間の持つ謗法罪障と宿業を自覚させて、真の幸福へと導いてくれるものなのです。
 
 信仰の目的とは何か
 そこで人間が正しい信仰を求める目的や意義について述べましょう。
 仏法における信仰の目的とは、一言でいえば「成仏」ということです。
 成仏とは過去、現在、未来の三世に亘って崩れることのない真の幸福境界であり、その成仏への道を歩むことが正しい信仰の目的なのです。
 日蓮大聖人は、
「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」(御書 一三八八㌻)
と仰せです。
 すなわち正しい御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えて成仏することが信仰において最も大事なことなのです。
 
 仏法が説き示す中道の意義
 仏法では成仏の境界の一つとして「中道」を説いています。
 この中道とは両極端にある苦行と快楽の世界を超越した道のことです。また単純に苦楽の真ん中にある中間の道ではなく、いわば苦楽の「因果」を超越した道なのです。
 人間がこの世に生まれてきて病苦や経済苦に悩まされるのは、その人の宿業、つまり過去世から自分で積んできた行為(業因)によって定まった結果の姿とも言えます。
 しかしこの宿業の姿を知って正しい仏法を信仰するならば、病苦や経済苦などを自身の境界から根本的に解決して、苦しみの因果を超えることができるのです。
 例えば、苦しみの現実を避けるため家に引きこもって気楽に生きたいと思うならば、それは一時的な快楽を求めている姿です。
 また病苦や経済苦に悩み、その反動で社会や周りの人を恨み続けるのは、言わば苦しみの道になります。
 この両極端な苦楽の道は共に不幸な道となります。このことを深く自覚して人生の逆境に直面したとき、その苦難を正面から受け止めて、正しい信仰で乗り越えようとする道こそが、仏法の中道なのです。
 
 苦難をどう受け止めて生きたらよいのか
 このように、病苦や経済苦などの苦難に出遭あったとき、何とかしてその苦を克服して幸せになりたいと切実な思いで解決の道を求めるのが、人としての本来の生き方なのです。
 正しい仏法の信仰によって、自分が経験した苦悩を決して無駄にしたくないという自省の思い、あるいは自らの宿業を転換して苦難を乗り切ることができたことへの感謝の気持ちが自然と生まれます。
 そして私たちがこうした仏法の功徳を味わうならば、自分が幸福な道を歩むと共に、他に同じように悩み苦しんでいる人を手助けすることもできます。
 正しい仏法によって苦楽を超える中道の「正しい生き方」を学んで、しかも信仰の現証として実際の生活も豊かになることで、人間として充実した幸福な人生を送ることができるのです。
 
 御本尊様との縁が大事
 このように、人生の苦悩に対する根本的な原因と解決の道を、三世の上から解き明かしたものが正しい仏法なのです。
 さらに仏法では、すべての人間が幸福になれる可能性として「仏性」(仏となる本性)の存在を説いています。
 私たち衆生の中にはすばらしい「仏性」が具そなわっているのです。
 しかし、正しい縁(御本尊)に出会わなければ仏性を悟らず、仏性のあることも知らず、仏性の功徳も顕われないのです。
 故に大聖人様は、
「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値はざれば、悟らず知らず顕はれず」(同 一四二六㌻)
と説かれているのです。
 衆生の成仏のためには、正しい御本尊の縁がとても大切なのです。御本尊の縁によって、すべての人が持っている仏性が等しく顕われてくるからです。
 御法主日如上人猊下は、
「御本尊様の縁に触れるということの尊さ、なかんずく総本山にお参りして戒壇の大御本尊様にお目通りするその功徳というものは、本当にすばらしいものがあるのです。(中略)だから我々は御本尊様の縁に触れると同時に、多くの人達にこの縁に触れさせていかなければならないのです。そして共に題目を唱え、折伏をしていけば、必ずその人の仏性も開かれてくる、南無妙法蓮華経が開いてくるのです」(大白法 七九八号)
と仰せです。
 私たちは、信仰における本来の目的や意義を知らない人に対して御本尊の功徳を説き聞かせて、慈悲の折伏を実行し、大法広布への前進を果たしてまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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