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宗派は分かれているが、到達する目的地はおなじではないか

 
「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ、と主張する人の中には、「分け登る 麓の道は多けれど 同じ雲井の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。しかし、これはあくまでもひとつの古歌であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の嶺に至るもの、別な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを証拠に宗教を論ずることはできません。
 いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異っています。
 キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依が説かれ、コーランを所依の教典としています。儒教は孔子によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世の因果律という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済を説かれたものです。しかも同じ仏教の中でも、小乗教は劣応身という仏を教主として戒律を説き、一切の煩悩を断じ尽くした阿羅漢という聖者になることを目的としています。これに対し大乗教の中でも、華厳経を所依とする華厳宗、方等部から発した真言宗、浄土宗、禅宗など、般若部の教理をもとにした三論宗など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異っているのです。
 まして「唯有一仏乗」といわれる法華経は今までの四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理と偉大な仏の利益、そして真実の仏身が説き現わされたものです。その目的も、今までの経教では、三乗すなわち声聞を目的とする者、縁覚を目的とする者、菩薩になることを目指す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり仮りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗すなわちすべての人が仏の境界に至ることこそ真実の目的であると教示されました。
 このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異っているのです。もしあなたが〝宗教〟という大きな意味で、目的が〝救済〟ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。それはあたかも〝学校〟はどこも〝教育〟を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通っても同じだということと同じです。宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑な判断は当を得たものでないことがわかると思います。

【折伏実践のために】

宗教は同じではない
 よく「困った時の神だのみ」と言われるように、悩みや苦しみ、困ったことが起こると救いを神仏に求める人がいます。こうした人たちは、どのような神仏でも、信じて祈れば得られる結果は同じで、悩み苦しみが解決するものと思い込んでいます。しかし、このように考えるのは間違いです。なぜなら、宗教には、私たちが苦悩から救われる正しい宗教と、救われない間違った宗教があるからです。
 信仰とは、神仏の心と、それを信ずる人の心がよく通じ合うことですから、信ずる心が強ければ強いほど強い影響を受けます。また信仰は、感応の理であり、知ると知らずとにかかわらず、必ず信ずる宗教に影響を受け、その人の生き方や人格に及んで一生を根本的に左右します。もし低級かつ邪よこしまな宗教を信仰したならば、それを信ずる人は不幸を背負って生きることとなります。故に「宗教はどれも到達する目的は同じである」と思い込んでしまうことは、たいへん危険な考え方です。
 人は生きている限り、常に悩みと苦しみの連続であります。こうした悩みや苦しみの人生を、どのようにして楽しく幸せに生活していくことができるか、ここに正しい宗教の必要性があります。間違った宗教を信ずれば、悩み苦しみは解決するどころか、さらに増大するからです。
 
 正しい宗教を選ぶ
 宗教や信仰は、私たちの人生の幸不幸を根本的に決定づける重要な問題を含みますから、正しい宗教を選ぶことが必要です。すなわち、宗教には浅い教えや深い教え、また低い教えと高い教えなどがあり、正しい宗教を選ぶことが真に救われる道となるのです。
 正しい宗教とは、生命の実相をあますところなく正しく説き明かし、物事の因果の道理に適った教えです。そして何よりも、すべての人に生きる勇気と希望を与えてくれる教えです。
 世界中のあらゆる宗教の中で、因果の道理に基づく教えは仏法だけですが、釈尊は法華経の中に、
「唯ただ一乗の法のみ有り 二無く亦また三無し」(法華経 一一〇㌻)
と説かれ、釈尊一代五十年にわたる説教の中で、真実最高の教えは法華経のみであり、法華経以外の教えは真実の教えでないことを明かされています。
 さらに釈尊は、法華経の教理を深く正しく知る行者が末法に出現し、人々を成仏の境界に導くであろうと予言されました。その予言に違わずに出現された方こそ日蓮大聖人様です。そして、その大聖人様が道理、文証、現証の三証の上から宗教の究極として顕あらわされたのが「南無妙法蓮華経」の御本尊様なのです。人生の様々な悩み苦しみを解決するためには、この真実最高の御本尊様を信じて祈ってこそ、その願いが叶うのです。
 
 正しい宗教で必ず幸せ(仏の境界)に
 「毎日が幸せでありたい」と願うのは、人の常です。家族に恵まれ、仕事に恵まれ、悩みや苦しみもなく、何不自由なく安穏に暮らしたいと願い、人は常により勝れた幸せを求めて生活しています。しかし人生には四苦八苦等の苦が充満しており、私たちが生きている限り、悩み苦しみは消えるものではありません。
 大聖人様は、
「夫それ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をと遂ぐ、謗ずる者は無む間けん大城に堕おつ」(御書 九〇五㌻)
と説かれています。
 法華経は、諸経の中で最も勝れた教えであり、この経を信じる人は絶対的な幸福(成仏)の境界を得ることができ、反対に信じない者は謗法ほうぼうの罪により不幸に堕おちるのです。法華経の信仰とは、日蓮大聖人様の三大秘法の御本尊様を信ずることであり、絶対的な幸福をもたらし、生きる歓びが涌いてきます。
 この成仏の境界とは、悩みや苦しみが一切消えてなくなってしまうことではなく、どのような悩みや苦しみが現われても、そこから逃げず、直正面から向き合って乗り越え、自由自在に生活し活動していくことです。しかしながら、私たちの心というのはたいへん弱く、困難にぶつかると、それを自分一人の力ではなかなか乗り越えることができません。御本尊様を信ずることによって、勇気と強い生命力が涌き、それらを乗り越えることができるのです。
 大聖人様は、
「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤もっとも大切なり」(同 一三八八㌻)
と示され、御本尊様を信じ南無妙法蓮華経と唱えて、揺るぎない絶対的な幸福を築くことを教えられています。
 
 今こそ折伏の時
 今、世の中には、謗法の罪障に苦しむ人たちが大勢います。一刻も早く大聖人様の正しい仏法を教えてあげましよう。
 大聖人様は『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(同 四〇三㌻)
と「今こそ折伏の時」と仰せです。
 御法主上人猊下は、
「折伏は末法濁悪の世に在って、一切衆生救済の最善の方途であります。しかのみならず、折伏は自他共に幸せになるのみにあらず、世の中を変え、裟婆即寂光の原理によって国土世間を変え、仏国土を実現する、計り知れない力を秘めているのであります」(大白法 七五七号)
と御指南されています。今私たちは、「時を逃さず」また「人を選ばず」に、幅広く折伏に邁進し、一人でも多くの人たちを救うことが大切なのです。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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