ホーム » 正しい宗教と信仰 » 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法) » 現実生活の幸福要件はお金が第一ではないか

現実生活の幸福要件はお金が第一ではないか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 私たちが日常生活を営むうえで、衣・食・住の全般にわたってお金がたいへん重要で便利な役割を果たしています。物品の価値がお金に換算できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖われています。
 そのためにお金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙げる考えの人は少なくありません。
 しかしどんなに貴重なお金であっても、所詮は人間社会によって産み出された〝物〟であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換えれば、生きている人間そのものが主体者で、金銭は人間によって考え出された流通上の約束ごとのひとつであるということです。
 これを間違えて、人間がお金に使われたり振り回されるところにとんでもない悲劇が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死した老人がいました。また遺産をめぐる親族間の争いが高じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨な事件は毎日のように報道されています。これはお金というものが、私たちの生活に大きな比重を占めている証しでもありますし、生死にかかわるほど大きな影響力をもっている証左でもあります。
 と同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。
 つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招くこともあるということなのです。
 ここに主体者である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。
 日蓮大聖人は、
「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」
(崇峻天皇御書・新編一一七三)
と仰せられています。
 私たちにとって大切な財宝はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。
 お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨き、福徳に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。
 せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決まります。
 物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。

【折伏実践のために】

お金があることが本当の幸せか?
 私たちが生活していく中で、お金は非常に重要な役割を果たしていることは事実です。
 特に現代社会においては生きていくためには必要不可欠なものと言っても過言ではありません。「地獄の沙さ汰たも金次第」と言われるように、お金で何でも解決できる、お金は絶対だと思っている人も多いのではないでしょうか。お金がなくなると人は心までも貧しくなり、裕福な生活をしていると心にゆとりがあるという言い方をする人もいます。
 しかし、お金があることが本当の幸せなのでしょうか?
 確かにお金があれば欲しい物が手に入り、満足な気持ちにはなりますが、それは長続きしません。「金は命の親、また命の敵」「金の切れ目が縁の切れ目」などの言葉があるように、お金は私たちの生活を潤うるおしてくれるものでもあり、また反対にトラブルの元にもなるものなのです。
 お金がない人は、それを求めるあまり行き過ぎた行動をとることもあり、お金がある人は、それをどう守るか、さらにどう増やすかと考えるなど、あるないにかかわらず人の欲望というものは限りがないものです。その姿は、幸せというよりも欲に執とらわれた迷いの姿であります。
 では、お金がない人は幸せにはなれないのでしょうか。そうではありません。
 たとえお金がなく世間的に貧しいと言われる人であっても、悠々ゆうゆうと生活をしている人は大勢います。求めれば限りはありませんが、考え方、心の持ちようで、お金に執われない幸せな生活ができるのではないでしょうか。
 「お金に使われるな」と言いますが、同じお金でも使う人の考え、心によっては全く違うものになります。募金や義援金などのボランティアに使うのであれば他人のために役立つものとなりますが、逆に人を陥おとしいれる、不幸にするために使われることもあります。
 大聖人様は『弥源太殿御返事』に、
「ぜに銭と云ふものは用にしたがって変ずるなり」(御書 七二三㌻)
と、お金は使い方によって変化をすると仰せのように、使う側の私たちがどのような心で使うかによって変わってくるのです。
 
 心の財を積む
 本文の『崇峻天皇御書』に仰せのように、お金などの蔵の財や身体の財よりも、まず心の財を積むことが大切になります。
 そして正しく心の財を積むためには、まず正しい仏法に縁をしなければなりません。しかし『四条金吾殿御返事』に、
「受くるはやす易く、持たもつはかた難し。さる間成仏は持つにあり」(同 七七五㌻)
と仰せのように、ただ縁をしただけではなくそれを持ち続けること、毎日毎日しっかりと信心修行に励み心を磨いていくことが大事なのです。
 『聖人御難事』には、
「月々日々につよ強り給へ。すこしもたゆ弛む心あらば魔たよりをうべし」(同 一三九七㌻)
と仰せられ、日々怠なまけることなく、魔が付け入る隙すきを与えないように精進していくべきことをお示しです。
 御法主日如上人猊下は、
「どんなにすばらしい才能や素質を持っていたとしても、錬磨しなければ、その才能や素質を活かすことはできないように、我々も仏性を内在し、一生成仏の素因を持っていても、真剣に唱題行を実践し、信心を鍛え、磨いていかなければ、己れ自身の成仏もかなわず、広布への役目も全うすることができないのであります」(大白法 八一七号)
と真剣な唱題を根本に日々信行に励み、信心を鍛えていかなければならないことを御指南です。
 
 真心の御供養を
 正しい仏法に縁して日々信行に励み心を磨いていく、その磨かれた心で私たちにとって大切なお金をどのように使っていくのがよいのでしょうか。自分自身の向上のために欲しいものを買うこともいいと思います。将来のため、夢のため、明確な目標のために貯金することもいいでしょう。
 そうした中でも、私たち大聖人様の仏法を信仰する法華講の一員として忘れてはならないことが、御本尊様へお供えすること、「御供養」をしていくということです。
 『新池殿御消息』に、
「小善なれども法華経に供養しまいらせ給ひぬれば功徳此くの如し」(同 一三六三㌻)
と仰せのように御本尊様に御供養をすることは大切なことであり、金額の大小ではなく真心からの御供養であれば大きな功徳を戴くことができます。
 御法主日如上人猊下は、
「御供養の功徳というものは広大なものがあります。(中略)皆様方の御供養によって宗門が、また総本山が、特に御影堂が改修されますことは、皆様方にとっても末代まで語り継げる、大きな誇りになるのではないかと思います」(大白法 八一〇号)
と御指南されています。
 第二十六世日寛上人は『松任まつとう治兵衛殿御返事』に、
「かならず、かならず身のまづしきをなげくべからず。唯信心のまづしき事をなげくべきにて候」
と御指南のように、お金がないと嘆なげくのではなく信心により心の財を積ませていただき、真心からの御供養を申し上げ、その功徳をもって、悩み苦しんでいる人々救うために慈悲の折伏を行じてまいりましょう。

RSS 宝日記

  • 9月度広布推進会 2021年9月18日
    奈良県佛覚寺での9月度の広布推進会に参加させて頂きました。前日からの台風の来襲でどうなるかと思いましたが早朝に […]
    kirimoto3

RSS 掲示板

  • ムムムさんへ 2021年9月16日
    新しく、この掲示板に参加されましたか。 この掲示板も見てくれている人がいるということですね。 お気軽にどうぞ。 […]
    管理人

管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
お問い合わせは、ホームページのメールフォームから
電話でも受け付けております。
携帯090-3656-1453

カウント

Visits today: _