「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
人間の幸福と不幸を、線を引いて区分することはできません。まったく同じ条件のなかにあって、ある人は自分は不幸だと思う人もいれば、別な人は自分は幸福だと思う場合もあります。ひとつの結果を利益とみるか、罰とみるかはその人の心や考え方によって決定されるといっても間違いではありません。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、どこまで心頭を滅却(無念無想の境地)できるか、どの程度の火熱を涼しく感ずるかという限界点は個人差がありましょう。しかし普通の人で、真っ赤に焼けた鉄にふれても何も感じない人はいません。また食事をとらないで一日二日は我慢できても、十日も二十日も絶食して平常と変わらない人はいません。どんな人でも体に激痛を感ずれば心も落ち着かなくなるのは当然です。
これらの事実から見ても、現実の結果や物事の評価は人間の心によって決定されるものですが、心はまた現実の物質世界に支えられていることがわかるでしょう。
これらの原理を仏法では「色心不二」といって物質や肉体(色)と精神(心)はたがいに離れることなく一体であると説いています。
この色心不二の生命に根本的な影響を与えるものが宗教です。
日蓮大聖人の教えによりますと、妙法を信受する者について、
「身は是安全にして、心は是禅定ならん」(立正安国論・新編二五〇)
と仰せられ、心に禅定を得るばかりでなく、身体も安穏になると説かれています。
また、正法に背く者について、経文を引用して、
「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん」(立正安国論・新編二四九)
と説かれています。この文の意味は、
〝正法を信ぜず、信仰を壊る者は福徳が尽きて、孝養心のある子供に恵まれず、親子・兄弟・親戚が仲たがいをしていがみあう。天候不順で作物も実らず、悪病が流行し、悪い思想もはやって生活をおびやかす。奇怪な事件やわざわいが次々に起こり、死後は苦しみの地獄、飢渇の餓鬼、互いに殺し合う畜生などの世界に落ちる。その後もし人間に生まれてくるならば兵隊として戦場にかり出されたり、奴隷となって酷使されるであろう〟
というのです。
これらの教えは因果の道理、すなわち善因を積めば善果を得、悪因には悪果を生じるという当然の姿を記したものであり、正法を信受する者には大利益が、不信毀謗の者には厳然とした罰が、身心両面に現われることを説いているのです。
真実の幸福と安穏な境涯は、凡俗の私たちが心でどのように受けとめるか、あるいは一時的な感情でどのように考えるか、というところにあるのではなく、正しい仏法をいかに余念なく信受し、行じうるかにかかっていることを知るべきでしょう。
【折伏実践のために】
利り益やくと罰ばち
一般に「利り益やく」とは恩恵や幸福を意味し、「罰ばち」とは、病苦や貧困、家庭不和などの不幸な現象を言います。
確かにこうした幸・不幸の現象に対し、私たちは幸福(利益)を感じて喜ぶこともあれば、ある時は苦痛(罰)を感じて悲しみに打ちひしがれることもあります。人の心の持ち方によっては、それら幸・不幸の感情が増幅されたり軽減されたりするのも事実です。
しかし、真実の幸・不幸の姿は、そうした心の持ち方による表層的な現象にあるわけではないのです。
色心不二の大事
世間の人々は、身体や物質をはじめ様々な事象において、「あくまで心の主観(持ち方)による観念上のものにすぎない(唯ゆい心しん論ろん)」、または「物質こそが根本である(唯ゆい物ぶつ論)」と、心と物質のどちらか一方に執とらわれる偏かたよった考え方をしている人が多いようです。
しかし、正しい仏法においては、色心不二ということが説かれています。すなわち、物質と心(精神)は、仏様の悟りの上では一体であることを明かされているのです。
総本山第二十六世日寛上人は、
「本尊に迷う故に亦また我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死を離れず」(御書文段 二〇三㌻)
と仰せられました。正しい本尊に迷う結果として、物質・心に苦悩や迷いが起こるために真の幸福が得られないと御教示されているのです。
さらに『御義口伝』に、
「帰き命みょうとは南無妙法蓮華経なり。(中略)帰とは我等が色法なり、命とは我等が心法なり。色心不二なるを一極ごくと云ふなり」(御書 一七一九㌻)
と御教示されています。御本仏・日蓮大聖人様は自身の色心を南無妙法蓮華経と開かい悟ごされました。
その色心不二の根本の悟りが事じの一念三千の当体である人にん法ぽう一いっ箇かの本尊であり、私たちが色心の二法をもって帰命すべき正しい御本尊様なのです。
こうした色心不二の大事を知り、正しい本尊に縁することが真の幸福への第一条件であることを心得ましょう。
三さん道どう即そく三さん徳とく
また、本文には利益や罰は単に「心の持ち方」によるのではなく、因果の理法に基づいて受けるともあります。
因果の理法とは、結果があれば、必ずその結果に応じた原因があるという真理です。利益(楽)や罰(苦)という結果は、その苦楽の結果に応じた原因が自分の中にあるということです。その真理に気がつかなければ、罰から逃のがれることも真の利益を得ることもできません。
世間では「罰が当たる」と言って、悪い行いに対する神仏のこらしめと捉える場合もありますが、仏法から見れば人間の迷いの心は「病んでいる心」であり、罰等の不幸の原因は、人間の貪むさぼり、怒いかり、愚癡ぐちといった煩ぼん悩のう(心の病)にあると説いています。
御法主日如上人猊下は「輪りん廻ね三さん道どう」の姿について、
「輪廻三道とは、衆生が六道の生死、つまり迷い、苦しみを続けていく状態を示したもので、貪とん瞋じん癡ちの煩悩によって、まず悪業を生み、その悪業によって三界六道の苦しみを生み、その苦しみが、また元に戻って煩悩を生み、煩悩がまた悪業を生み、悪業がまた苦しみを生み、その苦しみがまた戻って煩悩に至る。これを輪廻して、果てしなく繰り返していく姿を言うのであります」(大白法 八五八号)
と教示されています。この煩悩・業・苦の三道を繰り返しているのが人間の迷いの姿なのです。
そこで、大聖人様は『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩ぼん悩のう・業ごう・苦の三道、法ほっ身しん・般はん若にゃ・解げ脱だつの三さん徳とくと転じて、三さん観がん・三さん諦たい即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常じょう寂じゃっ光こう土どなり」(御書 六九四㌻)
と仰せられています。
すなわち、私たちが御本尊を信じて、御題目を唱えるところ、煩悩・業・苦の三道を、法身(法ほっ性しょう)・般若(智ち慧え)・解脱(悟り)の三徳と転じる功徳を自身に頂戴することができるのであり、さらには自身を取り巻く環境をも浄化し、常寂光土となっていくのです。
真の利益は修行の実践に
私たちは、色心不二・因果の道理に基づいて、謗ほう法ぼうを犯しながら煩悩・業・苦の三道を繰り返し、大苦(罰)を受けてきたのです。
この苦悩の解決は、単に心の持ち方を変えたところで成し得ません。真の幸福は罰の原因たる謗法を断ち、日蓮大聖人様が顕わされた御本尊様を信じ南無妙法蓮華経と唱える仏道修行にあるのです。
私たちは、このことを多くの人々に伝え弘める折伏行に精進し、常寂光土の実現に努めてまいりましょう。