超能力を信ずることは宗教なのか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 一般的に超能力とは、普通の人間の五官ではなしえない力を指していいますが、本来十界の生命を備えている人間が、周囲の縁や修練によって、特別な能力を持ったとしても少しも不思議ではありません。
 仏教では、これら超能力のことを「神通力」あるいは単に「通力」と呼び、これを五通と六通に分けて説明しています。
 五通とは、一、自在に移動できる力。二、透視する力。三、普通の人の聞こえない音を聞く力。四、他人の考えを知る力。五、自他の過去世の相を知る力をいい、六通とはこれに煩悩を取り去る力を加えたものを指します。
 こうしてみると現代の超能力者の中には、仏教でいう五通の一分を持った者もいるということができましょう。
 この通力については、御書にもたびたび出ており、中でも古代インドの外道で、十二年間恒河の水を耳の中にとどめたという阿伽陀仙人や、一日の中に四海の水を飲みほすという耆兎仙人などが知られていますが、これら外道の仙術は深く宗教と結びつき、幻術といって催眠術を用いて人々の目を眩惑させるものもありました。
 現実に通力や超能力を持っている人はいるかもしれませんが、その能力の存在そのものは別に宗教ではありません。しかし、超能力を売り物にした行者とか祈祷師などの教えを信じて、その通力に頼っておうかがいをたてたり、悩みを解決しようとする行為が誤った信仰になるのです。
 日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄・新編二三三)
と仰せになっています。利根とは、鋭利な五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)を具えることであり、ふつうでは見えないものを見、聞こえない音を聞きとるなどの能力を持つ人をいいます。
 通力とは前にのべた五通、六通の特殊な力をいいます。大聖人はこれらの利根や通力には人間の生命を浄化する力はまったくなく、かえって正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となるために、これらに頼ることを厳しく禁じられているのです。
 ただし、こうした一般の超能力とは違った真の通力について、『法華経寿量品第十六』には、「如来秘密神通之力」と説かれております。この神通力とは、悪業深重の衆生をも必ず成仏せしめるという、仏のみが持つところの究極の功徳力をいいます。
 大聖人は、
「成仏するより外の神通と秘密とは之無きなり」(御義口伝・新編一七六六)
と仰せです。
 末法においては、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と一心に唱えることにより、即身成仏が遂げられるのであり、これこそ真実の如来の秘密・神通の力なのです。

【折伏実践のために】

超能力に頼ってはいけない
 超能力とは、人間の力ではできないようなことをする特別な力のことで、具体的には、未来予知や透視など通常の能力を超えた不思議な能力のことをいいます。今日、普通の人間にはないこれら超能力を持った人がいたとしても少しも不思議なことではなく、超能力を研究する学問(超心理学)があるぐらいです。
 人々は、他人ひとにできない不思議な能力があると、自慢したり周囲も尊敬したり、その能力に頼ってみたいと憧あこがれるかもしれません。しかし本文にある通り、超能力は宗教ではありませんから、どのような能力にも頼ってはなりません。
 新興宗教の中には、超能力や霊能力などを売り物にしているものが多くあります。これらは、人々の超能力ヘの憧れにつけ込んでいるに過ぎません。
 超能力に頼ったとしても幸福な幸せを得られるわけではなく、かえって邪知に振り回されるだけです。
 
 目連尊者の話から
 超能力とは、仏教でいう神通力のことてすが、これらのことは、仏教における釈尊の十大弟子の一人、目もく連れん尊そん者じゃについて見ていくとよく判ります。
 盂う蘭ら盆ぼん経きょうによりますと、目連尊者は小乗教の阿あ羅ら漢かんの悟りによって得た神通力によって、亡き母親が餓鬼道に堕おちて苦しんでいたのを救おうとしましたが、逆に母親を苦しめる結果となり、神通力によってでは母親を救うことができないことを知りました。そして師である釈尊に助けを求め、その教え通りに実行した結果、ようやく母親を餓鬼道一劫こうの苦しみから救うことができたのでした。
 ここで大事なことは、目連尊者が修行で得た神通力をもってしても、母親を救うことができなかった理由は、彼が悟った阿羅漢果とは小乗の低い悟りであり、母親が餓鬼道で苦しんでいると知り得たとしても、実際にそこから救うことができず、それどころか間違った神通力の運用は逆に母親を苦しめる結果となったということです。
 このことは、超能力においても同じです。超能力を売り物にした行者とか祈祷師などの教えを信じて、その力に頼って何か願いを叶えようとしたならば、その願いは叶うどころか、かえって自らを悪くしてしまうことになるのです。
 大聖人様は、
「通力をもて智者愚者をばしるべからざるか」(御書 二三三㌻)
と示され、超人的な能力を持っているから勝れた人であるとは言えず、そのような能力に頼ったり、信じたりしてはいけないと厳しく仰せられています。それは、正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となる魔の所為となるからです。
 それでも、超能力を持つ行者を信頼し、盲信するような人に対しては、
「若し彼の変へん化げのしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。当に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶阿鼻の炎をまぬ免かれず(中略)是これ一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏るべし畏るべし」(同 三六六㌻)
と仰せられ、超能力者を信ずる人々は、外道を信じているようなもので、実に恐ろしいことであり、これらの邪師には決して近づいてはいけないと戒められています。
 先に述べた、目連尊者の話においても、神通力では母親を餓鬼道の苦しみから救い出すことすら叶わず、釈尊の教えにより初めて救い出すことができました。しかしこの時にはまだ、母親を最高の境界である成仏には導けてはいなかったのです。
 大聖人様は、
「目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(同 一三七六㌻)
と仰せのように、目連尊者が後に法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えたときに、初めて自分自身が多た摩ま羅ら跋ば栴せん檀だん香こう仏ぶつという仏になって、その功徳により、母親を真の成仏に導くことができたのです。
 故に、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(同 二三三㌻)
と仰せであり、超能力などに惑わされることなく、あくまで正しい宗教への信仰に徹することが大切なのです。
 
 成仏こそ最高の境界
 末法今日における法華経とは、御本仏日蓮大聖人の御当体である、人法一箇の御本尊のことであり、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱えたとき、初めて境智冥合して成仏の境界を得ることができるのであります。私たちはこの大御本尊を無二に信じ行ずる以外に、幸せになる道はありません。
 御法主日如上人猊下は、
「今日の混こん沌とんとした世の中を見るとき、邪義邪宗の謗法の害毒にむしばまれている多くの人々の救済は大聖人様の仏法以外にはなく、そのために折伏を行じていくことは、本宗僧俗のなすべき、最も大事な使命であります。
 そのためには、一人ひとりが難を乗り越える強盛なる信心に立ち、大御本尊様への確信を持って、いかなる困難・障害が前途に立ちはだかろうが、勇猛精進して一人でも多くの人に下種結縁し、折伏を行じていくことが今、最も肝要であります」(大白法 七九七号)
と仰せです。私たちは一人ひとりが全魂を込めて折伏を行じてまいりましょう。

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