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現実生活をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 世間の数多い宗教家といわれる人のなかには表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振舞い、世俗の人々を見下した態度をとる人がいます。
 とくにキリスト教や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。
 しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越することなどできるわけがありません。それこそ、〝霞を食って生きる〟ことなどできるわけがないのですから、もし世俗を超越したように振舞ったり、現実生活を蔑む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺いています。
 涅槃経には、末代の僧侶について、
「持律に似像して少く経を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も猶猟師の細めに視て徐に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
と説かれています。この意味は、表面は戒律を持ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
 また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
 この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
 これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落しているのもいれば、正法を護持し清潔高邁な人格と慈愛を有する人もいます。一般の在俗の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因するのでしょうか。
 日蓮大聖人は、
「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」(南条殿御返事・新編一五六九)
と仰せられ、人の尊卑は受持するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も必ず濁ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌み嫌うならば、その元凶である邪教悪法を恐れなければならないのです。
 結論からいえば、末法という濁悪の現時における真実の本仏は、法華経文底秘沈の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。
 大聖人は、
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」
(入谷入道女房御書・新編八三〇)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。
 日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人君子になるための宗教でもありません。正宗の僧俗はともに正法たる大御本尊を信受し、行学に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進しているのです。

【折伏実践のために】

邪宗教の実体
 釈尊は御入滅後、未来に現れるであろう邪宗教の姿を、様々な経典に予証されています。
 邪宗教の者たちは、あたかも偉大な宗教家のごとき振る舞いをしていますが、実体は世の中に出て一切衆生を救済していくという精神は、少しもありません。自らの名みょう聞もん名みょう利り・私し利り私し欲よくのために、宗教を利用しているに過ぎません。
 外面は、あたかも賢人・善人のごとく振る舞っていても、その内面は、常に貪欲で、嫉妬深い心が充満していることを経典では予証されているのです。
 大聖人様は、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四㌻)
と仰せられ、邪宗教は信仰の根幹である本尊に迷っているがために、間違った姿になっていることを御教示です。
 しかし、邪宗教の実体を見て、「宗教はどれも一緒だ、この程度だ」と判断してしまうのは軽率です。大聖人様は、
「末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし。正法の者は爪そう上じょうの土のごとしととかれて候」(同 五三四㌻)
と、正しい法に背そむく者はたいへん多くいて、正しい法を信仰する者はたいへん少ないと御教示です。つまり、邪宗教の実体は、釈尊が経典に予証している姿そのままであって、正法を信ずる者には当てはまりませんから、宗教はどれも同じではないのです。
 
 真実最高の宗教とは
 「宗教は何でもよい」と考える人がいますが、そうではありません。宗教には、必ず根本となる本尊が定められています。この本尊が、その人の人格と人生に大きな影響を与えるのです。
 ですから私たちは、宗教の正邪・浅深を弁わきまえて、真実最高の宗教を選択することが肝要です。
 大聖人様は、
「菩薩人師の言ことばには依るべからず、仏の御ご定じょうを用ひよ」(同 一三〇七㌻)
と、仏の智慧によって定め、用いていくことの大切さを御教示です。宗教の正邪を定めることは、極めて大切な問題ですから、自分の好き嫌いや興味のあるなしで判断すべきことではないのです。
 では、真実最高の宗教とは何でしょうか。釈尊は法華経の中で、
「唯一乗の法のみ有り 二無く亦三無し」(法華経 一一〇㌻)
と説かれ、仏の説かれた真実の教えは一つであって、二つも三つもない、と仰せです。
 そして、結論から言えば、様々な宗教の中では仏教、仏教の中では法華経、法華経といっても本門寿量品の文底に秘められた末法のための南無妙法蓮華経を伝える日蓮正宗こそが、数多くある宗教の中で、真実最高の正しい宗教です。
 
 謗法の害毒
 正しい法に背く、または正しい法に至らない邪宗教は、甘い言葉などを使って巧たくみに近寄ってきます。しかし、邪宗教の現実は、病気、家庭不和、貧困と、生活は徐々に落ち込み、境界が低くなっていきます。
 大聖人様は、
「今の世の人々は皆頭こうべ阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり」(御書 一〇七一㌻)
と仰せられ、悪業を積み重ねていくと正常な感覚を失ってしまい、不幸が不幸と感じられなくなると御教示です。
 世間の人々は、それら正法に背く報むくいが現証として現われているにもかかわらず、悪業を積み重ねているためになかなか信ずることができないでいます。そして最も恐るべきことを大聖人様は、
「必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提いっせんだい人これなり」(同 五七一㌻)
と、正法に背くことにより無間地獄に堕ちる人は、今世には現罰が現われないと説かれているのです。
 
 謗法罪障を消滅するための折伏行
 恐るべきは邪宗教であり、謗法です。
 御法主日如上人猊下は、
「今日の如き世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあることを明かされているのであります。よって、この不幸と混乱と苦悩の根源たる謗法を断たたなければ、己れ自身の幸せも、世の中の平和も実現することはできないのであります」(大白法 八三一号)
と御指南されています。
 この御指南を拝し、私たちがなすベきことは折伏です。自身の謗法の罪障を消滅するためにも、真の世界平和を実現するためにも、折伏しかないのです。
 正しい法の話をしなければ、仏になる種を植えなければ、種から芽が出ることはありません。ですから、誰彼の別なく、強しいて正法の話を説いて聞かせていくことが肝要となるのです。
 この折伏こそが末法の修行であり、仏法の大道に生きる者の姿であるということをしっかりと心に置いて、堂々と折伏を行じてまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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