「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「めんどうくさい」といって、怠惰をきめこみ「世間体が悪い」などと、求道の前に、すでにしり込みしてしまうような生き方をしていては、家庭にあっても、職場にあっても、真の職責と使命を果たすことはできません。
つまるところ、人生の目的は幸福でありますから、その目的にむかって、一つひとつ障害となるものを取り除いて前進していくべきです。積雪の中を走る汽車の前進をはばむ雪は払わねばなりません。雪かきがめんどうだといっていては汽車は前には進みません。
日蓮大聖人は、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」
(立正安国論・新編二五〇)
と仰せられています。また正しい信仰に対する小さな発心、ほんのわずかな精進が、あとに大きな力となってあらわれてくることを、
「小事つもりて大事となる」(衆生心身御書・新編一二一六)
とも教えられています。
「親兄弟がなにか言いやしないか」・「親戚の人が反対しないか」・「上司や友人が軽蔑しないか」・「先祖からの墓地があるので改宗しにくい」などと、取り越し苦労するよりも、今日の小さな発心が、やがて大きな喜びとなり、功徳となって返ってくることを確信してください。その喜びと確信をもって、かえって反対しているそれらの人々をも、正法に導くことができるのです。
まして、今日の民主主義の社会においては、封建時代のように、改宗によって命に及ぶほどの迫害があろうはずもありません。まったくみずからの意志において、正しい信仰に帰依し、実践することができる時代です。信仰の自由を謳歌できる現代は、もう周囲のしがらみや、世間体をはばかって過去からの宗教にとらわれているときではありません。「よき人材となろう」・「幸福になろう」という発心の心とともに、敢然として邪義を捨てて、正法を実践することがなによりも大切です。
大聖人は、
「かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん。さあらんに取っては何ぞ後世のつとめをいたさゞらんや」
(新池御書・新編一四五六)
と仰せられ、せっかく人間に生まれたからには正しい信仰をもって将来の幸福を築くべきであると教えています。
いたずらに無為な時間を過ごすことなく意を決し、勇気をもって正法につくことこそが、今、あなたのとるべき道であるといいたいのです。
【折伏実践のために】
寺てら請うけ制度の弊へい害がい
私たちが信仰する目的とは、幸せになるためです。
その目的のために正しい信仰に励むことは当然のことであり、改宗するのが「めんどうくさい」などと言っていては、幸せになることはできません。
現在、人々の宗教観を見ますと、未だ江戸時代の宗教統制の一環として設もうけられた寺てら請うけ制度の影響を受けている人がいます。
寺請制度とは、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請うける制度です。この寺請制度の確立によって、当時の人々は自己の信仰心を問われることなくいずれかの寺院を菩提寺と定められ、その檀家になることを義務づけられました。これは江戸幕府によって一方的に定められたものであり、当時の人がその教えを正しいと確信して信仰したものではありません。
しかし現在は、憲法によって信教の自由が認められています。私たちは、宗教の正邪を自分自身で判断し、正しい信仰により幸せになれるのです。
正しい宗教はただ一つ
世の中には多くの宗教があり、教えの高低や浅深など様々な違いがあります。
しかし釈尊は『妙法蓮華経方便品第二』に、
「唯ただ一いち乗じょうの法のみ有り二に無なく亦また三無し」(法華経 一一〇㌻)
として、真実の法はただ一つであると説かれています。
いかに人々の幸せや平和を説いている宗教でも、因果を無視し時に適かなわない誤った教えを信仰していれば、それが原因となって、いずれは不幸な結果を招くことになるのです。
幸せとは、単なる観念的なものではなく、因果の道理を基もととした正しい教えによって健全な生命を確立し、深い智慧と強い心を養うことによって初めてもたらされるものです。
よって、幸せになるためには正しい信仰を持つ以外にはないのです。
大聖人様は『高橋入道殿御返事』に、
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂いわゆる病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻えん浮ぶ提だいの一切衆生にさづくべし」(御書 八八七㌻)
と仰せられ、我々末法の衆生は、真実最高の教えである妙法蓮華経の五字によってのみ幸せになることができると説かれています。
正しい仏法に縁することの難しさ
しかし、この正法に縁することは簡単なことではありません。
大聖人様は、『聖愚問答抄』に、
「鳴呼ああ受け難き人界の生をうけ、値あひ難き如来の聖教に値ひ奉れり、一いち眼げんの亀の浮ふ木もくの穴にあへるがごとし」(同 三八二㌻)
と仰せられ、また『法華題目抄』には、
「さればこの経に値あひたてまつる事をば、三千年に一度花さく優う曇どん華げ、無量無辺劫に一度値ふなる一眼の亀にもたとへたり」(同 三五五㌻)
と仰せられています。
これは、人としての生を受けることでさえ難しいのに、その上で正しい仏法に値うことは、三千年に一度花開く優曇華に値い、また百年に一度だけ海上に頭を出す片目の亀が自分の腹を冷やすのにちょうどよい穴の開いた浮き木に遇えるように、極めて難しいことを譬えられたものです。
よって我々は、この正法に縁することができた計り知れない身の福徳を心から感謝すると共に、大聖人様への御報恩のために、日々真剣に信行に邁進することが大切です。
「今さら」ではなく「今こそ」
御法主日如上人猊下は、
「今も昔も、六道の衆生は五濁にまみれて、そこから抜け出せず、また逃れるすべも知らず、塗と炭たんの苦しみのなかで、いたずらにもがき苦しんでいるのであります。
この六道の凡夫の苦しみを救い、転迷開悟せしめ、救っていく唯一の秘法こそ、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が唱え出だされた本因下種の妙法蓮華経であります」(大白法 八〇五号)
と御指南あそばされています。
世の中には、組織のしがらみや世間体を気にして宗教の正邪を無視し、六道の苦しみに迷って改宗できない人たちがたくさんいます。私たちは、誤った宗教によって迷いの中にいる親や兄弟・親戚をはじめ、自分に関わるすべての人を幸せに導くために、折伏行に一生懸命励んでまいりましょう。
「今さら」ではなく、「今こそ」一人でも多くの人を救っていく時です。