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宗教は教団の金もうけにすぎないのではないか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 ご指摘のとおり昨今の宗教界の乱脈ぶりは目を覆うばかりです。ほとんどの教団は、民衆救済と社会平和の実現という宗教本来の使命を忘れ、本尊や書籍、守り札、祈祷などを売りものにして、金もうけに専念している現状です。
 ひどい教団になると、教義がらみで信者にお金を出すよう強制します。たとえば目を患っている人に対して「目の玉は丸いでしょう。目の因縁を切るために、丸いもの(お金)を供えなさい」、また足の悪い人には「足は〝おあし〟(お金)に通じるから、お金を上げればよくなります」などとまったく人をばかにした〝ごろ合せ〟や〝こじつけ〟で無知な人を騙しています。もっと悪質なものになると、「欲心があなたを不幸にしているのだから、欲心を棄てなさい。そのためにはあなたの財産を神様に捧げることです」などと言葉巧みに、全財産を教団にまき上げられた例もあります。
 こんな宗教は明らかに金もうけを目的としたものですから、近づかないほうが無難です。
 では、宗教団体が資金を持つことは悪いことなのかというと、それも誤った考えです。教義を研鑚し、修行し、布教するためには、それを賄う資金がなければなりません。
 仏典には、菩薩の修行として貧者に物を与える布施行が説かれておりますし、衆生が仏や法に対して、報恩の念をもって金品を供養することを、積功累徳の行いであると賞賛しています。供養とは自分にとって大切な宝を仏様に捧げることであり、これには蔵の財・身の財・心の財の三種がありますが、大聖人は、
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」
(崇峻天皇御書・新編一一七三)
と仰せられ、信心という心の財を根本にすることを教えています。
 「日蓮正宗の信心はまったくお金がかからないのか」という声を聞きますが、常識的に考えても、信仰するためには珠数や経本、仏具、書籍などの費用は必要です。また御本尊に対する自発的な供養や先祖回向の塔婆供養なども、信仰者として当然なされるべきでしょう。
 しかし、日蓮正宗では本山はじめ各地の末寺でも、賽銭箱などはいっさいありませんし、他宗徒からの供養は仏の本意に叶わないとして、まったく受け取らないのです。また葬儀、法事などにおいても、〝お経料〟とか〝戒名料〟もありませんし、他宗のように供養の額を定めて請求することなどもありません。
 日蓮正宗はひたすら正法を純粋に守り、弘教し、真の幸福と世界平和の確立を目指して実践している唯一の宗団なのです。

【折伏実践のために】

 仏道修行の基本としての御供養
 金もうけが目的の新宗教や、誤った本尊や教義を立てる他宗の在あり方とは異なり、日蓮正宗における「御供養」とは、私たちが成仏を遂げるために欠かせない、善根を積むための仏道修行であると心得なければなりません。
 本宗の信仰の基本は、朝夕の勤行・唱題と、御本尊様へのお給仕です。
 お給仕の精神は、法華経の『提婆達多品』に、
「菓このみを採り水を汲み、薪たきぎを拾い食じきを設もうけ、乃ない至し身を以もって牀じょう座ざと作なせしに、身心倦ものうきこと無かりき」(法華経 三五七㌻)
と説かれるように、身心に怠たい慢まんなく、真心から仏様に常じょう随ずい給きゅう仕じを申し上げるところにあります。
 宗祖大聖人様より唯授一人の法体血脈を御相承された第二祖日興上人、またその法灯を継がれた第三祖日目上人は、常に御本仏である大聖人様のお側でお仕えし、常随給仕なされました。
 末輩である私たちも、御先師の行体に習い、日夜朝暮に大聖人様の御法魂たる御本尊様へお水や仏飯、樒しきみをお供えし、勤行・唱題の際には香を焚たき、明かりを灯ともして御宝前を荘厳するのです。これらの所作は、ことごとく仏様への尊い御供養に他なりません。
 総本山第九世日有上人が『化儀抄』に、
「些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて・如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ」
と仰せられた通り、私たちは、眼前に生身の御本仏が在ましますと確信して日々御本尊様にお仕え申し上げ、その御恩徳に報いていくことが肝要です。
 真剣に勤行・唱題に励み、弛たゆまず仏様をお護りして御供養を奉る人は、必ずや身に徳を積んで多大な御利益を頂戴し、幸福で力強い境界を開いていけるのです。
 
 「財の供養」の大事
 御供養について様々な経論には、二種供養、三種供養、十種供養などが説かれていますが、ここでは大別して「財の供養」と「法の供養」について述べます。
 「財の供養」とは、飲食・香華・金銭等の財物を御本尊に供え奉ることです。
 そもそも御供養とは、末法下種の仏法僧の三宝すなわち、法宝である御本尊様、仏宝である宗祖大聖人様、そして僧宝である大聖人様からの血脈を伝持あそばされる第二祖日興上人をはじめとする歴代上人に奉るものです。
 総本山第二十六世日寛上人が、ご信徒に宛てたお手紙の中に、
「たとえ山のごとく財をつみて御供養候とも、若もし信心なくはせんなき事なるべし(中略)かならずかならず身のまずしきをなげくべからず。唯信心のまずしきことをなげくべきにて候」(『松任次兵衛殿御報』・妙喜寺蔵)
と御指南されているように、何よりも肝心なのが純真な信心です。ですから、「これだけ御供養したのだから、それに応じた見返りが欲しい」などという御報恩の志のない態度では、せっかくの御供養にも、徳を積むどころか罪障を積むことになりかねません。
 歴史を振り返れば、宗門の大外護者として赤誠を貫かれた南条時光殿は、大聖人様が身延で清貧な中にあった期間中に、様々な御供養の品を送られて外護に努つとめられました。その様子が数多くの返礼のお手紙として伝えられています。時光殿は、大聖人様御入滅後も日興上人のもとにあって正法の護持に努め、日興上人が身延離山された後には大石ヶ原を寄進され、これを礎いしずえとして現在の総本山大石寺が建立されたのです。
 また、大石寺の境内には、御影堂や三門、五重塔などの堂どう宇うが残されてきました。これらもひとえに、宗内僧俗の並々ならぬ努力と尊い御供養による内護、外護の証あかしに他なりません。
 このように財の供養は、どこまでも宗祖大聖人様の出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊様をお護りし、一切衆生救済の大法を令りょう法ぼう久く住じゅうせしめるための大切な行であり、その功徳は実に大きいことを知っていただきたいと思います。
 
 「法の供養」による広布への前進
 「法の供養」とは、仏の所説に従って正法を弘め、人々を教化・利益することです。御本尊様に自行化他の題目を唱え、どのような困難にも臆することなく折伏弘通に励むことを言います。
 また、私たちは日々生活する中で、社会をはじめ、様々な人から恩恵を受けており、これを仏教では「一切衆生の恩」と教えています。このような恩に報いる最高の方途が、正法を施ほどこすことであり、法の供養となるのです。
 御法主日如上人猊下は、
「平等に与えられた尊い時間をいかに生きるか、いかにしたら価値ある時間とすることができるのか、いかにしたら広布のために役立つすばらしい時間とすることができるのか。それとも、愚かにも、またとない貴重な時間を無為に過ごして悔いを万代に残すのか。それを決めるのは、我々自身であります。我々自身の信心であります」(大白法 七〇五号)
と御指南されています。
 「時間」とは、私たちの命です。この尊い時間を、寺院参詣をはじめ、信心活動に費やすことは、一身を仏様に捧げる尊い志となります。
 私たちの人生が、広布のために役立つすばらしいものとなるように身命を惜しまず折伏・育成に励み、真の仏教者となるよう精進していきましょう。

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