「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分の利益というべき結果が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相が御利益のように感じられるのでしょう。しかし、人間の生命は一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれてさまざまな作用をするわけですから、周囲の状態(縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。
また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現われたものであり、あっても不思議ではありません。
しかし日蓮大聖人は、
「利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄・新編二三三)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。
ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。
たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至る邪な道があるとします。正しい道は向上するものですから、険しい坂道や困難な壁にぶつかることもありましょう。反対に邪な道は下降する道ですから、快適な下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。しかし一輪の花や下り坂に魅せられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師がはじめに正直者を装い、おいしい餌を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依することを妨げようとする魔の働きなのです。
一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。
【折伏実践のために】
宗教には正邪がある
現在日本には、十数万という数の宗教があると言われていますが、多くの人がどのような宗教にもそれなりに利益があると考え、こうした宗教に正邪があることを知りません。そして、多くの人たちが、悩みや苦しみ、願い事があると、宗教を簡単に好きとか嫌いで判断し、自分の心に適かなった宗教を頼みとし、そこで悩みや苦しみを解決しようとします。しかしながら、信ずる宗教の如何いかんによって、私たちの人生は大きく左右されますから、宗教は何でもよいというわけにはいきません。私たちは、見たり聞いたりするたびに様々な影響を受けます。楽しいことを見聞きすれば、気持ちが穏やかになり、身も心も豊かになります。反対に、悲しい出来事や不幸な話を聞けば、心は重く悲しくなります。これは感かん応のうの作用によるもので、人の心は様々な縁によって変化し、それによって人生も大きく変わっていきます。特に宗教による影響は強く、私たちが信じて拝むことにより、信ずる対象となる宗教の考え方が心の奥深くまで感応し、様々な影響を心や体に及ぼします。だからこそ、こうした人たちに対しては、何よりもまず「宗教には正しい宗教と間違った宗教がある」ことを教えなくてはなりません。
目先の利益に惑わされてはいけない
とかく人は、どん底に陥おちいり思い悩むと藁わらをもつかむ思いで神仏を頼りとしますが、不幸の真っただ中でこうした宗教に縁をし、一分の改善が見られると、その信仰の如何を問わずに信じてしまうものです。しかし、よさそうに見えるのも一時のことで、「利益があった」と言っても根本から解決できるものではなく、目先の利益に惑わされてはいけません。また、祈祷師や占い師などの利根や通力を頼みとすることも間違いです。日蓮大聖人は、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(御書 二三三㌻)
と仰せられています。「利根」とは、宗教的素質や能力に優れていることで、「通力」とは、特別な修行をすることによって特殊な才能が発揮され、眼や耳・鼻などが発達して、普通の人には見えないようなものが見えるようになったり、普通では聞こえない声や音などを聞くことができるというもので「神通力」と言われるものです。世の中にはこうした特殊な能力を持った人もいますが、こうした能力は私たちの成仏には全く関係がなく、むしろ心を惑わせ、物事を正しく判断できなくさせてしまいます。故にこうした人の言葉を信じて、悩み・苦しみを解決しようとしたり、自分自身の人生を決定しようとすることは間違いです。
宗教の正邪を定める基準は、「但し法門をもて邪正をたゞすべし」と仰せのごとく、仏様の教えである法門に随って正邪を判断すべきなのです。正しい信仰をすれば正しい確かな利益が生じますが、間違った信仰や低い教えを説く宗教を信仰すれば、そのまま悪い影響を受け、不幸な人生を歩むことになるからです。
そして正しい信仰とは、末法においては日蓮大聖人の示された三大秘法の大御本尊への信仰です。『上野殿御返事』に、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(同 一二一九㌻)
と仰せられる通りです。日蓮大聖人の示された南無妙法蓮華経こそが唯一最高の正しい仏法であり、最高の人生を送るためには、正しく最高の宗教を選ばなくてはなりません。
正しい信仰にこそ正しい利益が具そなわる
私たちの生命は、三世に亘わたる因果の道理に基づいているものです。現在の果報は過去世の原因によるものであり、未来の果報は現在の原因によってもたらされるのです。こうした因果の道理をしっかりと弁わきまえるところに、様々な問題の解決の道があります。すなわち、幸せになるには幸せになるための原因が必ずあるのであり、不幸には不幸になる原因が必ず存在します。原因を正しく知らなければ真の問題解決には至りません。心地観経というお経には、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(同 五七一㌻)
と示されています。
また、御法主日如上人猊下は、
「不幸と苦悩の根本の原因はすべて邪義邪宗の謗法の害毒にある」(大白法 六九三号)
と仰せです。私たちが幸せになるためには、何よりも苦悩の原因となる謗法を対治することが大切なのです。そしてまた、今私たちが真実の幸せを築くためには、正しい因となる御本尊への信心修行が必要です。そして私たちの使命は、未だ御本尊を知らずに苦悩に喘あえぐ人たちに、一刻も早く大慈悲行である折伏をもって御本尊への信仰を教えてあげることです。日蓮大聖人は、
「仏法の中には仏いま誡しめて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(御書 一二六二㌻)
と仰せです。
御本尊の功徳に浴し、幸せな毎日を送ることのできる私たちは、自らの信心だけに満足することなく、より多くの人々を折伏することこそが、今最も大切であると心得、勇気を奮い起こして、大聖人様の御金言のままに、平成二十七年・平成三十三年の御命題達成に向け、折伏に邁進しましょう。