依(え)正(しょう)不二(ふに)
依正不二とは、依報(えほう)と正報(しょうぼう)が一体不二の関係にあることをいいます。
正報とは、過去の業の報(むく)いとして受けた心身をいい、依報とは、正報の拠(よ)り所である環境・国土をいいます。そして不二とは、二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいいます。
天台教学では、法報応(ほっぽうおう)の三身が円満に相即する円教の仏と、法界を一仏(法身)の身体とする寂光土が、ともに三千世間を具する一体の仏身仏土であると説きます。その円教の仏が九界の衆生に応じて、蔵通別の教主としてその身を現わす相を正報とし、円教の仏の住する寂光土より現じた凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)・方便(ほうべん)有余土(うよど)・実報(じっぽう)無(む)障(しょう)礙土(げど)の三土を依報とします。仏は衆生を導くため、円仏寂光一体不二の極果より、蔵教等の前三教の教主ならびに凡聖等の三土の依正を開き現わしたのです。
妙楽大師湛然(たんねん)は、『法華(ほっけ)玄義(げんぎ)釈(しゃく)籤(せん)』に、
「已(い)証(しょう)遮那(しゃな)の一体不二なるは、良(まこと)に無始の一念三千に由(よ)る、三千の中の生陰(しょうおん)の二千を正と為し、国土の一千を依に属するを以てなり、依正既に一心に居す」
と、一念三千を構成する三千世間をとって、衆生世間と五陰世間の二千を正報に配し、国土世間の一千を依報に配して、依正の三千世間は即一心一念に具(そな)わることを説いて、依正不二を明かしています。
仏の依正不二は、仏の一念に具わる無始の一念三千を顕発(けんぱつ)して得た極果(ごっか)であり、そしてまた、凡夫初心の行者の己心にも、本より三千世間が具するゆえ、依正不二の徳が具わることを説いているのです。
すなわち、依正不二とは、爾前で説かれた一切の依正の悉(ことごと)くを円仏寂光の依正に相即・帰入して、本来、依正の隔(へだ)てのないことを明かしたものであり、依正三千世間が行者の己心に具わることを明かした法門をいうのです。
天台は、依正の三千を己心に証得するために観心修行を説きました。しかし、末法の本未有善の衆生は、天台の観心修行によってこれを証得することはできません。
日蓮大聖人が『諸法実相抄』に、
「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず 妙法蓮華経のすがた(相)なり(乃至)妙法蓮華経こそ本仏にては御坐(おわ)し候へ」(御書 664頁)
と仰せのように、末法の衆生は、十界の依正の当体を悉く具えられた寿量文底下種・人法一箇の御本尊を受持して、はじめて仏果を成ずることができるのです。
そして、『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常(じょう)寂(じゃっ)光(こう)土(ど)なり。能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・色心、倶体(くたい)倶用(くゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 694頁)
と仰せのように、正直な心で題目を唱えることによって、凡夫の当体は直ちに妙法の当体と顕われ、その人の住する所は常寂光の仏国土と開かれるのです。