一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ) 不自(ふじ)惜(しゃく)身(しん)命(みょう)
「一心欲見仏 不自惜身命」(新編法華経 439頁)
は、法華経『寿量品』の『自我偈』の文で、
「一心(いっしん)に仏(ほとけ)を見(み)たてまつらんと欲(ほっ)して 自(みずか)ら身(しん)命(みょう)を惜(お)しまず」(同)
と読みます。
仏果を一心に求めるためには身命を惜しまずに修行することが肝要である、ということです。
この文を日蓮大聖人の仏法から読むならば、そこには衆生の観心に約した附文(ふもん)の辺と大聖人の法体に約した元意(がんい)の辺が拝されます。
元意の辺とは、日蓮大聖人が結要付嘱の大法を御所持あそばされたその立場から示された法体を拝することです。
すなわち『義浄房御書』に、
「寿量品の自我偈に云はく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし(中略)日蓮云はく、一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」(御書 669頁)
と仰せのように、その経文は寿量品の文底に秘沈されている久遠元初の本仏の仏因仏果の行相と三大秘法を成就された意義を説き顕すもの、と拝することです。
大聖人は「一心欲見仏 不自惜身命」の御精神に立たれ、法華経に予証されるあらゆる難を一身に受けられて法華経の文々句々を身読実証し、三大秘法を建立されました。その三大秘法の当体は同抄に「一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり」とあるように、一心に仏を見たてまつる人は、すなわち妙法蓮華経であること、人即法、法即人、人法体一であることを御指南されています。
つまり、「一心欲見仏 不自惜身命」は、久遠元初の本仏の実修・実証を顕す経文であり、その「一心」は本仏大聖人の一念、南無妙法蓮華経であることを説いているのです。
次に附文の辺とは、仏道を成就するためには能化の仏と同様、私たち所化にも命がけの信心修行が肝要であるということです。
第二十六世日寛上人は『依義判文抄』に、
「初めの二句の中に『一心欲見仏』とは即ち是れ信心なり。『不自惜身命』とは即ち是れ唱題の修行なり、此れに自行化他有り、倶に是れ唱題なり」(六巻抄 99頁)
と仰せのように、「一心欲見仏」を信心に、「不自惜身命」を唱題に約され、自ら唱題に励み、他にも勧めていくよう御指南されています。
一心に仏を見たてまつらんとして南無妙法蓮華経と唱える信心と、身・命・財を惜しまぬ修行によって仏道は叶えられるのです。
今、私たちの信心修行における「一心欲見仏 不自惜身命」とは、まさに平成十四年・宗旨建立七百五十年の三十万総登山に向かって唱題に励むこと。そして、折伏に邁進すること、と心得ましょう。