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正法に擬する邪教団ー顕正会
諸宗教破折
過去の顕正会新聞に、
『富士大石寺』を冠し戦えるは顕正会のみ」(顕正新聞平成二十六年二月十五日付)
との見出しが躍っていた。
はてさて「富士大石寺」は日蓮正宗総本山であり、顕正会が冠すること自体おかしいのだが―。
正々堂々と「富士大石寺」を名乗れるのは、我々宗内僧俗である。 どういう意図か知らないが、「富士」を「冨士」と書き換えて、大石寺を名乗るのは、実にややこしく迷惑千万。
もし、自分たちこそ日蓮大聖人の正義を受持して弘めていると勘違いしているのであれば、彼らは、
「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまは国亡ぶべし」(御書10六)
の咎を、日夜重ねていることになる。
魂胆が透けて見える似非教団
顕正会は、法人格は「顕正会」として取得しながらも、看板を「冨士大石寺顕正会」と掲げ、まるで日蓮正宗総本山大石寺と関係のある教団のように装っている。
これをニセ札に例えて考えてみよう。ニセ札 (顕正会)は、正規のお金 (日蓮正宗)に似せて悪用すると
ころに罪がある。見るからに玩具と判れば、悪用もしない。つまり、あくどい魂胆が透けて見える 似て非なるもの、が最も悪というわけだ。
また、世間には「あやかり商法」なるワザがある。これは、ある商品やサービスが、あたかも他の人気商品や世間の流行、大型イベントと関連があるかのように宣伝して販売する方法だ。
擬い物を廃絶せよ
「大石寺」を冠することで、宗門に似せ、宗門に便乗して生き残ろうとでもしているようだ。
顕正会を知らない人は、
疑うことなく大石寺と同一視してしまう。
宗門への誹謗中傷だけでなく、この「擬似」という点でも、宗門を貶める顕正会は罪が深い。
彼らはどうして宗門に擬するのか。その真意は、首魁の浅井昭衛本人に聞かなくては判らないが、布教において、宗門に寄生するかのように存在していることは事実である。
大聖人の御一代をまことしやかに語り、大石寺の歴史を我が事のように話す。そうして人々を証惑していくのが彼らの常套手段なのだ。
その策略のせいで、世間には日蓮正宗と顕正会が同じように見えてしまうことがあるかも知れない。
しかし実は、大石寺を誹謗するのだから、似ているどころか、全く正反対の別物である。顕正会は、大聖人の教えとは真逆、対極にある存在だ。
七百五十年に及ぶ宗門史において、血脈相伝の正義に背反して破門された集団が、一時、宗門に寄生して己義を構えた例はいくつかある。だが、それらはすべて、時の流れと共に消え去った。
顕正会も、結局は謗法者・浅井の悪名だけを三世に残して、やがて歴史から消え去る運命である。
福運尽き果てる顕正会
浅井が信徒として宗門にいた期間は二十数年ほど。そのうち、心から信じて信仰した時間は、一体どのくらいあったのだろうか。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「夫運きはまりぬれば兵法もいらず。 果報つきぬれば所従もしたがはず」(同 一四七)
と示されている。
福運がなくなれば兵法も役に立たず、果報が尽きれば周囲の人も従わなくなる。 遠い昔に浅井が正法に
触れた福運や果報は、とっくに底をついている。 その浅井から、人は離れていく。
大聖人の仰せは、正しく歴史が証明している。 これが邪教顕正会の末路だ。
ただ、我々が手を拱き、正しいことを発信しなければ、浅井の謀略によって大石寺の悪いイメージが一人歩きし、やがて、固定観念として世間で定着する恐れがある。そこで我々は、強いて折伏を行じ、顕正会の正体を白日のもとに晒し、顕正会員を救うのみならず、人々の勘違いや先入観を払拭し、唯一正しい仏法は日蓮正宗大石寺をおいて他にないことを弘めていこう。
法華経について㉒
法華経について(全34)
22大白法 平成27年12月1日刊(第922号)より転載
『分別功徳品第十七』
先の『寿量品』では、釈尊が久遠五百塵点劫に菩薩道を行じて成仏し、それより娑婆世界で人々を教化し続けてこられたことを明かし、実には常住でありながら人々を教化するため、仮に滅度を示すことが説かれました。
今回の『分別功徳品』の前半では、本門正宗分の最後としてその利益が順々に説かれ、後半からは本門流通分の説法に入ります。
本門正宗分(前半)
当品の内容を述べる前に五十二位について説明します。
この五十二位とは、菩薩が成仏するまでの段階を、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の計五十二の位に分けたものです。このうち法華円教では、初住(十住の初めの位)をもって不退の境界に入ると定められています。
法華経迹門の説法で声聞が記別を得たのは、この初住の相を示したものとされ、当品の前半では『寿量品』を聴聞した人々がそれ以降の利益を分々に得たことが説かれます。
釈尊は弥勒菩薩(阿逸多)に、
「阿逸多よ。私がこのように仏の寿命が常住であると説くとき、ガンジス川流域の砂数を六百八十万億倍したほど多くの人々が、森羅万象が生じたり滅したりせず、単独で存在するのでもなく、互いに繋がり関係し合っているという中道の智慧を得て、不退の位にのぼることを得た【十住の益】。
そして、その千倍もの菩薩たちが仏の一切の教えを聞いて記憶し、忘れることがない聞持陀羅尼の功徳を得たのである【十行の益】。
また一つの世界をすり潰した塵の数(一世界微塵数)ほどの人数の菩薩たちが、人々の性質や欲望にしたがって自在に説法する弁才の功徳を得た【十回向の益】。
また同じ人数の菩薩たちが、膨大な塵沙の煩悩を破って自在に仏法を顕わす旋陀羅尼の功徳を得たのである【初地の益】」
以降、順番に十地の益まで説いた後、
「一つの須弥山を中心とした世界を微塵にした数の菩薩たちが、その一生において成仏を遂げるであろう」
と等覚の利益を説かれ、最後に、
「八つの世界を微塵にした数の人々が、皆、仏道を発心したのである」
と、十信の利益を説かれました。
すると、天より曼荼羅華(白蓮華)・摩訶曼荼羅華の花が降ってきて、その場に来集していた諸仏、及び宝塔の中の釈尊と多宝仏、さらに菩薩たちや僧尼、在俗のご信徒の上に舞い散ったのです。
また、粉末になった栴檀や沈香及び香水が降り、虚空の中に天人の鼓が打ち鳴って妙なる音色が響き渡るなどして、説法の会座を厳かにし、諸の菩薩たちが美しい声で詩歌をもって諸仏を讃歎されたのです。
その後、弥勒菩薩が偈頌を申し述べて、本門正宗分の一品二半は終わります。
本門流通分(後半)
―四信五品
後半の流通分に入ると、釈尊は現在の四信と滅後の五品について説かれました。
現在の四信とは、釈尊在世において『寿量品』の説法を聞き信心修行をする人の四つの段階(一念信解・略解言趣・広為他説・深信観成)で、滅後の五品とは、釈尊滅後における『寿量品』の信行の五つの段階(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)です。
釈尊はまず一念信解について、
「阿逸多よ。法華経本門『寿量品』の教えを聞いて、一念(刹那の短時間)のうちに信じ、理解する心を発すならば、その人が得る功徳は量り知れない。もし七十億劫もの長い間を五波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)の修行を行った功徳と、この一念の信解の功徳を比較するならば、五波羅密の修行の功徳は一念信解の功徳に百千万億分の一にも及ばない。このように一念の信解の功徳は莫大なものである」
と説かれ、次いで、
「阿逸多よ。もし仏の寿命が常住であると聞き、その教えと趣旨を理解し解説するならば、その得るところの功徳は量り知れない【略解言趣】。
ましてや、人々に向かって広くこの経を説き、または自分も受持し他人にも受持せしめ、または自ら書写し他人にも書写せしめ、様々な方法で『寿量品』を供養するならば、その人の功徳は無量である【広為他説】。
阿逸多よ。男性であれ、女性であれ、この仏の寿命の長遠なる教えを心に深く信じ、理解するならば、必ずや仏が常に霊鷲山にいて、菩薩をはじめとする人々に囲まれて説法している姿を見ることができるであろう。
そして、この娑婆世界は浄土であり、琉璃や金、宝樹の立ち並ぶ世界の中に菩薩が住んでいるところを見ることができるのである【深信観成】」
と説かれました。
釈尊は、さらに滅後における修行の五つの段階を説かれました。
「阿逸多よ。仏の滅後の時代に、この法華経を聞いて、けっして謗ることなく素直に信じ、随喜の心を発すならば、その人は既に深く信解の相に達しているのである【随喜品】。
ましてや、法華経を受持し読誦する者はなおさらであり、その者はその身に如来を頂戴していることになる。
阿逸多よ。この法華経を読誦する者たちは、仏のために塔や寺を建て、僧のために坊を建てて、諸の宝物、香、音楽をもって、長い間供養し続けることと同じである【読誦品】。
阿逸多よ。もし滅後にこの法華経を聞いて、よく受持し、さらに自ら書写し、また人々にも書写せしめるならば、その人は荘厳な僧坊や堂宇を数え切れないほど造り、仏や僧を供養することになるのである【説法品】。
ましてやよく法華経を受持し、兼ねて布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜の菩薩行を修するならば、その功徳は極めて勝れ無量無辺であり、速やかに仏の智慧の一分を体得するであろう【兼行六度品】。
もし人が、この法華経を受持し読誦すると共に人々のために説法し、あるいは自ら書写し、他人に書写せしめ、荘厳な塔や僧坊を建て、声聞や菩薩を供養讃歎し、これらを通して正しく六波羅蜜の行を実践する。
阿逸多よ。私の滅後にこのように修行する者は、既に仏の悟りの道場に座して、無上菩提に近づいているのと同じである【正行六度品】」
そして、以上の内容を重ねて偈頌として説かれ、当品は結ばれます。
信の大事
この四信五品について、四信の一念信解と五品の随喜品は、最初の段階でありながらも、他の経々の修行よりもはるかに大きな功徳があることに留意しなくてはいけません。
宗祖日蓮大聖人様は、末法の私たちにおける五品の修行について『四信五品抄』に、
「所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(御書 一一一二頁)
と仰せられています。
「初・二・三品」とは先の滅後の五品の初めの三品までで、『寿量品』を喜びの心を持って信心を持ち、読誦し、人々に説き弘める人の位です。また戒定慧の修行には仏道修行の一切を含む意味があります。
この御金言は、私たちが信心をもって慧に代えて、信心を根本とする修行に徹することで、戒定慧の一切を含む修行となることを仰せられたものです。
私たちは「信の一字を詮と為す」との御金言のように、信心を根本に、唱題に折伏に励んでいくことが肝要です・折伏誓願目標の完遂に向かって、精進してまいりましょう。
法華経について㉑
法華経について(全34)
21大白法 平成27年11月1日刊(第920号)より転載
『如来寿量品第十六』
この『如来寿量品』は釈尊出世の本懐として、一代五十年の説法の中で最も重要な御説法です。
しかも当家甚深の御相伝より拝さなければ、当品の真意に到達することはできません。
このように極めて重要な品ですから、古来より当品の御説法(並びに御講義)は御法主上人猊下のみがなされるのです。こうしたことから、今回は全体の流れを簡略に述べることにします。より深い御法門内容については、ぜひとも信心をもって、御法主上人猊下の御説法(毎年十一月の御大会の砌に行われ、本紙では十二月一日号に掲載されます)や、御隠尊日顕上人猊下の『寿量品説法』を拝読してください。
誡信・長行の法説段
さて前の『従地涌出品』の最後で、弥勒菩薩は、「釈尊は、三十歳で成道してより四十余年(並びに迹門)の教化をしてこられたが、どうして地涌の菩薩を久遠已来教化してきたとおっしゃるのか。釈尊はどのような仏様であるのか」と疑問を持ちました。これに対する答えが当品の説法になります。
まず釈尊は一会の大衆に仰せられました。
「諸の善良な人々よ。如来の真実の言葉を信心をもって聞き入れなさい」
釈尊は同じ言葉を三回述べ、聴衆を誡められました。この誡めを受けた聴衆は合掌して、
「世尊よ。ただ願わくば如来の真実の言葉を御説きください。私たちは必ずや仏様の御言葉を信受申し上げます」
と三度申し上げ、さらに重ねて懇請しました。
すると釈尊はもう一度誡められて、
「人々よ。あきらかに聞きなさい。如来の秘密の神通の力を」
と仰せになり、続いて次のように説かれました。
「一切世間の人々は皆、今の釈迦牟尼仏は釈迦族の王宮に生まれ、伽耶城に近い菩提樹の下を道場として座し、初めて無上の悟りを得たと思っている。しかし善男子よ。そうではない。私は実に仏と成ってより無量無辺百千万億那由他劫の長い時を経ているのである。
この長い時間は、例えば五百千万億那由他阿僧祇もの三千大千世界を、ある人が微塵に粉砕したとしよう。その塵を、東に向かって五百千万億那由他阿僧祇の国土を過ぎるごとに一粒ずつ落としていき、すべての塵を落とし尽くした。その時通過してきた国土がどれくらいになるのか、その数を計り知ることができるであろうか」
この質問に弥勒菩薩らは、「とても数えたり思慮の及ぶところではありません」と答えました。釈尊はそれを聞き、
「通り過ぎてきた世界をすべて合わせて再び微塵に砕き、その一粒の塵を一劫の時間に当てて数える。私が仏と成ったのは、それからさらに百千万億那由他阿僧祇劫も昔なのである。
この久遠(五百塵点劫)の昔に仏と成ってより、私は常にこの娑婆世界にあって人々を説法教化してきた。また他の多くの国土においても、人々を導いてきたのである。
今まで然灯仏のもとで修行したと説いたり、また涅槃に入った等と説いたのは、すべてが方便である。私は仏眼をもって人々の信心や理解力などの優劣を見て、適切な方法で導いてきた。様々な名前の仏として出世して寿命の長短を示し涅槃に入ることを告げ、様々な方便を駆使して、甚深の妙法を説いて人々に信仰の歓喜を起こさせてきたのである」
等と説かれました。そして、続いて、
「諸の善良な人々よ。仏が説いてきた経典は、すべて人々を導いて解脱せしめるためである。そのために自らの相や他仏の相、化導などを説いてきたが、それらはすべて真実である。
なぜならば仏は宇宙法界の姿をありのままに見るのであり、煩悩や生死の迷いに執(とら)われず、三界にありながらも中道に住して錯誤はないためである。
人々の性質や欲望、宿業などが様々であるのをよく知り、それぞれに合わせて前世の物語や譬えなど方便の教えを説き、久遠の昔より常に人々を導いてきたのである。
このように、私は成仏してより甚だ大いに久遠の時を経ており、その寿命は無量の長時にして常住である。私は久遠の昔に菩薩道を修行して仏と成り、成就したところの寿命は未だ尽きず、前の五百塵点劫の数に倍するのである。
また実には入滅することはないが、人々の教化のために仮に入滅すると説く。これは、仏が常に世に住するならば、徳の薄い人々は有り難さを忘れていつでも会えると思い、善行を修めようとせずに心が下劣になり、邪な教えに執われて、仏を敬う心を起こさなくなるからである。故に方便をもって入滅を説いて仏には会い難いことを説き、お会いしたいという恋慕の心を起こさせるのである。
このように実には常住で不滅であるが、人々を救うための方便として、入滅すると説くのである」
と説き、良医病子の譬えを説かれました。
譬説段・良医病子の譬え
例えば腕のよい医者がいて、智慧が勝れ薬の処方にも通達して、多くの人々の病を治していました。その人には子供が多く、十人、二十人、百人ほどもおりました。
ある時、父親の良医が所用のために遠い国へ出ている間に、子供たちは毒薬を飲んでしまい、地面に転げ回って苦しんでいました。
帰ってきた良医の姿を見て子供たちは喜び、「誤って毒薬を飲んでしまったので治療して命を助けてください」とお願いしたのです。
父の良医は、色も香りも味わいも勝れた大良薬を処方しました。そして、「この大良薬は、色、香り、味わいのすべてが具わっている。これを飲んで苦しみを取り除き、楽になりなさい」と言って、子供たちに与えました。
毒を飲んだものの、まだ本心を失っていない子供は、直ちにこの大良薬を飲んで苦しみを癒やしましたが、既に毒が身心に深く染み渡って本心を失ってしまった子供たちは疑って飲もうとしません。
良医は本心を失った子供たちを哀れみ、方便をもって大良薬を飲ませようとします。
「私はもう年老いて死期が近づいている。この大良薬を今ここに置いておくので、お前たちはこれを飲みなさい。病気が治らないと悲観してはいけない」
良医はそう言い残して他国へと行き、使いを遣わして父の良医の死を伝えさせました。
子供たちは嘆き悲しみ、「もし父がいたならば、必ずや私たちを愍んで救ってくれたのに、父は他国で亡くなってしまった。私たちは孤独になって頼るところもなくなってしまった」と思いました。そして、深く悲しみに沈んだ後に、ついに本心に目覚め、大良薬の勝れているのに気付いて自ら服したところ、病はことごとく平癒したのです。
子供たちが皆平癒したことを聞いた良医は、再び子供たちのもとへと帰ったのです。
この良医病子の譬えを説いた後、釈尊は「さてこの良医には嘘をついた罪(虚妄罪)があるだろうか」と尋ねました。大衆は「嘘をついた罪などはけっしてありません」と答えます。
釈尊は、「私もまたこの良医のように、実に成仏してから無量の時を経ているが、人々を化導するために、方便として実には滅しないのに入滅すると説くのであり、これを嘘をついた罪と咎める者はいないであろう」と説かれました。そして、以上の内容を重ねて偈文にして「自我偈」が説かれたのです。
体内と体外の寿量品
以上は、文底の意を含まない文上の『寿量品』(文底体外の文上の『寿量品』)となります。
文底の意を含む場合を体内、含まない場合を体外と言います。その相違を簡単に述べると、体外の意では釈尊の本地を久遠五百塵点劫の本果脱益とするのに対し、体内の意では久遠五百塵点劫は垂迹化他の仮の姿として、本当の本地は久遠元初の本因下種にあると見るのです。
なお文底内証の『寿量品』は、直ちに久遠元初の自受用報身如来の成道と、お悟りの法である南無妙法蓮華経を顕わすのであり、その人法一箇の妙法を大聖人様が三大秘法として建立されたのです。
これらは本宗相伝の深意によるものです。私たちは大良薬たる本門戒壇の大御本尊に対する揺るぎのない信心を持ち、唱題と折伏に励んでいくことが肝要なのです。
法華経について⑳
法華経について(全34)
20大白法 平成27年10月1日刊(第918号)より転載
『従地涌出品第十五』(後半)
引き続き『従地涌出品第十五』の内容について学んでいきます。前回は特に本門の序分に当たる前半部分について、教相面を主として説明しましたので、今回は前半部分を振り返った後、本門正宗分に入る後半部分について見ていきましょう。
『涌出品』に入ると、初めに他方の国土の菩薩方が、娑婆世界での弘経を誓願しましたが、釈尊はこれを許さず一言のもとに制止され、大地より上行等の四大菩薩を上首とした無量千万億もの本化地涌の菩薩を出現させます。
すると三十二相を具す無数の大菩薩の涌出に対して、此土の菩薩は疑念を発したため代表して弥勒菩薩が釈尊に請を結び、その一方で、他方の菩薩の疑念を十方分身の諸仏が抑え留められました。
本門正宗分・略開近顕遠
そしていよいよ釈尊が弥勒菩薩の問いに答えられますが、この釈尊の答えからが後半部分である本門の正宗分となります。
まず釈尊は弥勒菩薩の質問を賛嘆し、一心に精進堅固の心をもって疑いを懐くことなく、これから説く大事を聴聞するよう誡められます。
そして、地涌の菩薩は、釈尊が娑婆世界で悟りを開いて以来教導した菩薩たちであると示されたのです。さらに偈頌を説いて、地涌の菩薩の修行と化導の因縁を明かされましたが、偈頌の前半では、重ねて釈尊が伽耶城の菩提樹下に座して悟りを開いてから、無上の法輪を転じてこれらの菩薩たちを教化したと説かれます。
しかし、偈頌の最後に来たって、
「我今実語を説く 汝等一心に信ぜよ」(法華経 四二二頁)
と、釈尊の言葉は真実であるから信じるようにと念を押(お)された後に突然、
「我久遠より来 是等の衆を教化せり」(同)
と、久遠という遠い昔から、地涌の菩薩を教化したことを簡略に明かされました。
始成正覚という「近」を開いて、久遠実成という「遠」を略顕わされることから、これを「略開近顕遠」と言います。
動執生疑・父少子老の譬え
これを聴いた大衆は、始成正覚への深い執着から久遠以来の教化を未曾有のこととして理解できず、どうして釈尊はわずかな期間で無量の大菩薩を教化できたのかと心が揺れ動き、これまでの地涌の菩薩への疑念ではなく釈尊への新たな疑惑を生じました。これを動執生疑と言います。
そこで弥勒菩薩は再び釈尊に、どうして悟りを開いてから四十余年という少ない時間で、地涌の菩薩を教化できたのかを問います。
そして、三十成道の釈尊と久遠の昔から諸仏の元で修行してきたであろう地涌の菩薩の姿について、
「見目麗しい黒髪の二十五歳の青年が、百歳の老人を指して、『これは私の子供です』と言い、老人もまた青年を指して、『これは私の父です、私を育ててくれました』と言ったとしても、このようなことは到底信じがたい(趣意)」(同 四二三・四二六頁)
との譬えをもって、大衆の疑惑を示されました。
続けて弥勒菩薩が、
「一会の大衆はこれまで釈尊に随って聴聞してきたので、言葉に偽りはないと信じているが、妙法蓮華経に疑いを生じて信じなければ悪道に堕ちてしまうので、釈尊滅後の未来の人々が不審を懐かぬよう、無量の菩薩をどのようにして少ない時間で教化し発心させ、不退の位に住せしめたのかをお説きください(趣意)」(同 四二四・四二七頁)
と釈尊に申し上げて『涌出品』が終了し、次に『如来寿量品第十六』が説かれ、釈尊の本地が明がされることになります。
地涌の菩薩の内証
前回、地涌の菩薩の来由について、天台大師が『法華文句』に示された教相上の意義から、「次の『寿量品』の説法を引き起こし、その付嘱を受けるため」と説明しました。すなわち、釈尊の弟子として、大きく開近顕遠と結要付嘱の二義を顕わすために出現されたとするのが、外用の御立場です。このうち結要付嘱ということについては、『如来神力品第二十一』を学ぶときに説明いたします。
さて外用の御立場に対して、その根本には地涌の菩薩の本地、内証が存します。
実に深い意義のある御法門ですが端的に説明しますと、日蓮大聖人は『御義口伝』において、地涌の菩薩の上首である上行等の四大菩薩を、中国天台宗の道暹という人師の『輔正記』の義を依用されて常楽我浄の四徳という仏様の境界に配し、さらに地水火風空の五大に配されています。大聖人御教示の四徳・五大は、『総勘文抄』の即座開悟の御文等を拝するに、久遠元初の御本仏に具わる本有の四徳・五大であり、これを本因下種の南無妙法蓮華経と申し上げます。
また、大聖人は同じく『御義口伝』に、
「されば地涌の菩薩を本地と云へり。本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり。此の菩薩は本法所持の人なり。本法とは南無妙法蓮華経なり」(御書 一七六四頁)
と、地涌の菩薩の本地について御教示されています。地涌の菩薩は本法所持の人であり、本法とは何かと言えば南無妙法蓮華経であるとの、人即法、法即人の御教示と拝されます。
これらの大聖人の御教示を併せて考えるとき、久遠元初の御本仏の一身に具わる本有の五大、本因下種の妙法蓮華経こそが、地涌の菩薩の内証の本地なのです。
さて、大聖人は御書の中で、地涌の菩薩の中でも、特に上首の四大菩薩のうち上行菩薩御一人の末法出現を御示しになることがあります。法華経には、釈尊が上行菩薩のみを特別視する説相は見られませんが、これは大聖人が『百六箇抄』に、
「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(同 一六八五頁)
と仰せのように、大聖人が垂迹上行菩薩の末法再誕であることから、上行菩薩ただ一人を別格として拝するのです。またこの『百六箇抄』の御文には、大聖人が本地自受用報身如来の再誕であるとも示されています。このことからも、末法出現の上行菩薩の本地・内証が、久遠元初自受用報身に在すことは明らかです。
地涌の菩薩の眷属
法華経に予証された末法出現の地涌の菩薩は、日蓮大聖人に他なりませんが、大聖人は『御義口伝』に、
「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」(同 一七六四頁)
とも仰せられています。本未有善の荒凡夫である私たち末法の一切衆生も、妙法を信受したとき、文底本因下種の大法によって深い因縁が開かれ、法華講衆一人ひとりが地涌の流類、地涌の菩薩の眷属であることを自覚し、実証を示すことができるのです。
御法主日如上人猊下は、
「我らもまた地涌の菩薩の自覚を持って、その名にふさわしく、大聖人の教えのままに、一天四海本因妙広宣流布達成へ向かって、断固たる信念と強盛なる信心を貫きとおしていくことが大事であります」(大白法 七六〇号)
と、御指南あそばされています。来たる平成三十三年の御命題成就に向けて、宗祖日蓮大聖人の本眷属としての使命を自覚し、御法主上人猊下の御指南のもと折伏・育成を推進してまいりましょう。
法華経について⑲
法華経について(全34)
19大白法 平成27年9月1日刊(第916号)より転載
『従地涌出品第十五』(前半)
今回学ぶ『従地涌出品第十五』から、いよいよ「本門」に入ります。「本門」では、釈尊の本地が明かされます。
この品は、内容から前半と後半に分かれ、その前半が序分に当たり、後半は正宗分に入ります。
正宗分は、本門の中心部分であり、『寿量品』を主体として、『涌出品』の後半部分と『寿量品』の次に説かれる『分別功徳品』の前半までの一品二半がこれに当たります。
そして『分別功徳品』の後半からは、本門の流通分に入ります。
今回は、本門の正宗分が説かれる前の準備段階として説かれた『涌出品』の前半部分を学びます。
地涌の菩薩出現の経緯
前々回学んだ『勧持品第十三』では、先の『見宝塔品第十一』並びに『提婆達多品第十二』において、釈尊が一会の大衆に滅後の法華経弘通を勧められたことから、その要請を受けて、初めに薬王菩薩等の二万人の菩薩、次に舎利弗等の五百羅漢及び八千の学・無学のもの、また六千人の比丘尼、そして最後に、娑婆世界に住む八十万億もの菩薩たちが、末法悪世に法華経を弘通することを誓願しました。
次いで、前回の『安楽行品第十四』では、折伏による難を忍んでの弘教に耐えられない初心の菩薩のために、身・口・意・誓願という四種の安楽行を示して摂受による弘教の方軌を説かれました。また、「髻中明珠の譬え」をもって法華経が一切の教えの中で最勝の経であることを教えられました。
そして、『勧持品』において滅後末法において娑婆世界で法華経弘通を誓願す迹化の菩薩等の姿を見て、釈尊の分身として十方の世界で人々を化導される諸仏の付き人として来た、他方の国土の菩薩たちも、ぜひ共、娑婆世界で妙法を弘めさせて欲しいと念じていました。
今回の『涌出品』では、このような他方の菩薩たちによる弘通の誓願から始まります。そして、『涌出品』の冒頭、娑婆世界以外の他方の世界から来た八恒河沙以上の無数の菩薩が、釈尊の前に起って申し上げました。
「世尊よ、もしも私たちが、仏の滅後、この娑婆世界で、勤めて精進し、この法華経を護り持ち、読誦し、書写し、供養する、ということをお許しいただけるのならば、必ずやこの国土において法華経を広く説きましょう(趣意)」(法華経 四〇七頁)
すると、釈尊の返答は実に意外でありました。釈尊はこの菩薩たちに対し、
「止みね、善男子」(同 四〇八頁)
と答えられたのです。「止」というのは「とどめる」の意で、「お前たちが、この経を持つ必要はない」と、はっきり制止されたのです。これは、他方の菩薩に対してだけではなく、これまで弘通を誓願してきたすべての菩薩や比丘・比丘尼をも含めてのものです。
霊山虚空会に出現した地涌の菩薩
続いて釈尊が、
「私にはこの娑婆世界に六万恒河沙の菩薩がある、この一々の菩薩に六万恒河沙の眷属があって、我が滅後、この法華経を護持、読誦し、広く説くであろう(趣意)」(同頁)
と説き終わると突如、娑婆世界の大地が震裂して、その中より無量千万億もの大菩薩衆が同時に涌出し、虚空に満ちあふれました。その姿は皆金色で、仏と同じように三十二相を具え無量の光明を放っていました。これらの菩薩は、娑婆世界の遥か下にある虚空の中に住するのですが、ただ今の釈尊の言葉を聞いて、そこから涌き出てきたのです。これが地涌の菩薩と言われる菩薩衆です。
無数の地涌の菩薩たちは、虚空に昇って、宝塔の中に在す釈迦・多宝、さらに十方分身の諸仏を礼拝し、種々の形をもって讃歎しました。その間、釈尊も大衆もただ黙然とし、たいへんに長い時間がかかりましたが、それでもわずか半日のように感じさせたのです。こうして、虚空を覆い尽くした地涌の菩薩の中には、上行・無辺行・浄行・安立行という四人の上首唱導の指導者がいました。
彼らは、合掌して、
「世尊は安楽で病も少なく、心配も少なく、安楽に仏道を行じられておられますでしょうか。また、教化を受ける衆生は素直に教えを受けて、あまりご苦労をかけたりしてはいないでしょうか(趣意)」(同 四一一頁)
と御機嫌をお伺い申し上げると、釈尊は、
「私は安楽にして少病少悩であり、多くの衆生は教化しやすいので疲労することはありません(趣意)」(同 四一二頁)
とお答えになられました。その釈尊の答えを聞いた上行菩薩をはじめとする四大菩薩は、心から随喜しました。
此土・他土の菩薩の疑い
さて、その時、弥勒菩薩をはじめとする多くの菩薩たちには、
「私たちは、今まで、このような大菩薩が大地から涌き出で、世尊の前に合掌して、このように挨拶をされたことを見たことがない(趣意)」(同 四一三頁)
との疑念が生じました。そこで、弥勒菩薩が一会を代表して問いました。
「地涌千界の大菩薩たちは、どういった菩薩なのでしょうか。また、何の因縁によって来たのでしょうか。そして、誰が教化したのでしょうか。私は、過去無量の世に、あらゆる国土で修行し、来世には仏になると保証された菩薩ですが、今大地より涌き出た大菩薩については、ただ一人として識る者はありません。願わくば、この疑いを晴らしてください(趣意)」(同頁)
すると、先に弘教の誓願をした他方の菩薩たちも、同様のことをそれぞれの仏に質問しました。すると、仏たちは「今弥勒菩薩の問に釈尊が答えられるから、それを待ちなさい」と言いました。
ここまでの内容が『涌出品』の前半部分、つまり本門の序分となります。
続いて、本門の正宗分の内容になりますが、詳しくは次回学びたいと思いますので、ここでは概略的に説明いたします。
涌出品後半の概説
釈尊は、先ほどの弥勒菩薩の質問に対して、地涌の菩薩は、釈尊がインドの伽耶城菩提樹下において三十歳で成仏してより教化してきた菩薩であることを述べられました。そして、答えの最後のところで突然、
「我久遠より来 是等の衆を教化せり」(同 四二二頁)
と実は久遠の昔より地涌の菩薩を教化してきたことを簡略に明かされたのです。これを略開近顕遠と言います。すると弥勒等の疑いの矛先は、地涌の菩薩から釈尊へと変わりました。弥勒菩薩等は釈尊の始成正覚に執着していたため、心が揺れ動き、疑いを生じるのです。これが動執生疑ということで、その答えが『如来寿量品』に説かれるのです。
地涌の菩薩が涌出した理由
釈尊は本化地涌の菩薩を召すために「止みね、善男子」と他方の菩薩の誓願を退けられました。この理由について、天台大師は他方の菩薩と本化地涌の菩薩との前三後三をもって釈されていますが、当家の法義の上からは、さらに迹化の菩薩と本化地涌の菩薩との前三後三が説かれます。※詳しくは、図表をご覧ください。
つまり釈尊滅後の末法における妙法弘通は、釈尊の本眷属として常に娑婆世界に住し、結縁が深く、功徳を積むことも深く、末法の本未有善の衆生を救う利益のある本化の菩薩でなければ叶わないことを示されています。
また、天台大師は『法華文句』において、地涌の菩薩が出現した理由を、聞命の故、弘法の故、破執の故、顕本の故、の四つにまとめて示しています。
簡略に言うと、地涌の菩薩は釈尊の命によって大地より涌き出で、釈尊の三十成道への執着を払い、久遠以来常住の仏であることを顕わすために大地より涌き出で、さらに釈尊滅後の妙法弘通の付嘱を受けるために大地より涌出したのです。つまり、地涌の菩薩は、次の『寿量品』の説法を引き起こし、その付嘱を受けるために来たということです。
今回は教相上の流れについて述べてきましたが、次回はいよいよ本門の正宗分に入ります。ぜひ、下種仏法の上から地涌の菩薩の出現にどのような深義があるのか詳しく学んでいきましょう。