諸宗教破折
3/18/2018
【教 祖】中山みき
【現真柱】中山善衛
【立 教】一八三八年(天保九年)
【崇拝対象】天理王命
【教 典】「御筆先」「御神楽歌」「御指図」の三原典
【信者数】一,八八五.二八二人
【教会・布教所数】三八.四三一
参考:宗教年鑑(平成四年版)
【概 略】
天理教の教祖は中山みきといいます。
一八三八年(天保九年)十月二十六日、中山みきが神がかったこの日を「立教の日」と定め、天理教では毎年その日に大祭を行なっています。
大和国山辺郡三昧田(さんまいでん)村に生まれたみきは、隣の庄屋敷村の中山家へ十三才の時に嫁ぎ、そこが今の天理教本部(天理市三島町)の中心であります。
小さいときから、みきは信仰心が厚く、近くの念仏寺の参詣を条件に嫁入りしたといわれます。
嫁ぎ先の中山家は裕福な家だったのですが、夫善兵衛が非常に身持ちが悪く、夫婦仲が悪くなっていくにしたがって家運も落ちていきました。
百姓のほかに綿商もしていた中山家は、人の出入りが多く、若くして嫁入りしてきたみきにとっては、思いの外気苦労が多かったようです。そんな中で、十七年間に一男五女の子をもうけて、そのうち二人を亡くしています。
みき四十一才の時、一人息子の長男が足を病み、夫が眼を病み、自分は出産の肥立ちが悪いので、これを祈祷によって治そうと修験者・市兵衛を呼びました。
修験者の祈祷には、加持台という神が降りる中継人が必要だったのですが、それを努めるべき巫女(みこ)が不在で、みきがその代理を行なったことによって神がかり、天理教発生のきっかけになったのです。
詳しくは後述いたします。
さて、天理教は、天理王命(てんりおうのみこと)を崇拝対象とし、これを親神(おやがみ)といい、創始者中山みきを、教祖〈おやさま〉と呼んでいます。そして、教祖以後の代表者を真柱と言います。
教典としては、みきの著作になる「御筆先(おふでさき)」「御神楽歌(みかぐらうた)」があり、また、教えを後人がまとめたところの「御指図(おさしず)」を加えて、天理教の三原典としています。
【開教起因】
新興宗教の成立過程はどれもよく似ています。教祖の個人的事情によって引き起こされた異常心理による神がかり現象、これが最も共通する点です。
その昔、釈尊が城外に住む国民の老病死を視て、それを救わんと志しての出家、あるいは、天下の乱れ、万民の苦しみは何故起こっているのだろうかと疑問解決のため出家された大聖人様とは、もともとその出発点が違う事を、まず第一に知っておかねばなりません。
天理教は、その典型的な一つであります。
では、開教起因と過程をみてみましょう。
祈祷の加持台となった中山みきは、三日三晩神がかり状態が続き、その後夫に対し「われは天の将軍、大神宮である。この屋敷親子もろとも貰いうけたい。聞き入れるならば、三千世界を助ける。もし不承知ならば、この家もろとも、もともこもないようにしてしまう、それでもいいか(取意)と言ったのです。夫は、種々押し問答をしたが、みきの強引さにとうとう「差し上げ申す」と返事をさせられてしまったという内容が、教団の教祖伝に載っています。
これは、神の声と称して中山みきが、夫や、いきづまった家庭に対し行ったクーデター以外の何物でもありません。
跡取り息子の難病、家業を省みないグウタラ亭主との不和、子供の死、不安定な社会情勢からくる家業不振の悪条件が、内気なみきに究極の選択を迫ったものです。そしてみきは、神々の総元締、伊勢大神宮の力を借りました。また、地上の支配者徳川将軍に対して、それよりも威力ある天の将軍を引き合いに出し、何物にも負けない、この世で一番強いみきに生まれ変わったのであります。
みきは、神がかりという儀式を経て、日常の不満と日々の苦悩から一挙に解放されたことになります。しかしこれは、自己回復という単なるみき個人の自己満足であって、当初から世直しのメシア(救世主)などではなかったことを物語っています。
【教団名への批判】
天理教は、もともと転輪教(てんりんきょう)だったことをご存知でしょうか?
そもそも天輪とは、転輪聖王のことであって、武力を用いず正法によって全世界を統治する理想の王と仏教一般に言われ、化城喩品にも出てまいります。
また、念仏信仰では、阿弥陀仏が理想の王たる転輪王である等とも説いています。
教祖みきが、念仏信仰に深く関わってきた経緯をみれば、転輪王との結びつきは十分考えられることです。ましてや、天理と言う名称の発想等は、もともとみきの頭にあろうはずもありません。教祖のお筆先はもちろん仮名書きではありますが、しかし、その「てんりん」を、教団自身「転輪」「天輪」「天倫」等と漢字を充てて出版した書物が今に残っていることからも、初めは転輪だったことがよく判ります。
では、いつ、どうして「転輪」が「天理」に変わったのか、その辺を述べてみましょう。
明治七年から十九年までの間に、みきは官憲に十八回も拘留されています。そのたびに、とりまきの幹部は危険と不安に怯えていました。体制批判を続けてきたみきが明治二十年に死亡し、お陰で当局と話し合いが出来るようになった教団幹部は大いに喜びました。そして、教団の独立認可が欲しかった彼等は、ついに、明治政府の意向に従って、神道色の濃い教団に変身させます。
明治五年、政府は各宗派宛に三条教憲なるものを発布していました。
その三条教憲とは
「第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事
第二条、天理人道ヲ明ニスベキ事
第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
の内容です。この中で、第二条の「天理」が「転輪」と語呂が合い、しかも当局の意に添うものであるため、これなら独立認可をもらえるだろうと思った教団が明治二十一年から使い始めた名称、これが「天理」だったというわけです。
教祖・中山みきの神がかった元の神、即ち親神が「転輪王」ならば、その意に背く今の天理教は虚偽の教団と破折されるでしょうし、一方、今の天理教が正しいというのであれば、この教団は、教祖中山みきとは何ら関係のない宗団、というべきでしょう。
【教 義 批 判】
はじめに、天理教の神の観念について述べてみましょう。
天理教の親神「天理王命(てんりおうのみこと)」とは、キリスト教における神とよく似ており、この世の万物万人を意のままに創造した創造主という概念になっています。
初めは「神」と呼んでいましたが、途中から「月日(つきひ)」と変わり、後には「おや」と呼ぶようになっています。こうした変化も不自然ですが、特に一般世間の神と区別するために、「元の神」「真実の神」「元こしらえた神」等と、親神を強調しているのも天理教ならではと思います。
ともかく、神と人とを隔絶する神人隔別のとらえ方であることは確かです。そして面白いのは、作られるその人間も、もとはドジョウであった等と、神話「泥海古記」の中に説明していることです。その神話では、十全の神(手抜かりのない完全な神)として次のような名前が挙げられます。
クニトコタチノミコト、ヲモタリノミコト、クニサヅチノミコト等ですが、よく見ると「古事記」「日本書紀」に出てくる神名そのままとも思えます。ところが、その中で、クモヨミノミコトとタイショク天ノミコトは記紀に出てこないから記紀の真似ではない、と天理教では反論しています。いずれにしても、これら十柱の神を統理(とうり)し総称する神のことを天理王命だと説きます。
天理教の神とは、日本人特有の氏神(うじがみ)信仰と怨霊(おんりょう)信仰に加えて、八百万(やおろず)の神等が底辺にあり、そこへ念仏信仰の仏教が加わり、終には伊勢信仰までもが加えられて仕上がったものとみるべきでしょう。因縁話と陽気暮らしの理が、よくそれを物語っています。
仏の垂迹(すいじゃく)、あるいは仏道修行者を護るところの諸天善神の神観念を説く仏教とでは、凡そその意は異なります。また、神は親として人を産むが、子供として生まれた人間は、決して親たる神にはなれない、と言っています。その点、仏法では、「悉有仏性(しつうぶっしょう)・悉皆成仏(しつかいじょうぶつ)」と説き、凡夫も仏も本来は同質のもの、との理もあります。正法の信心と修行によって境智冥合するとき、九仏は一体、凡聖は一如なりとの理がそれであります。
次に、天理教の教えに基づく人生観を述べてみましょう。
教祖・中山みきの教えは陽気暮らしが大前提になっています。歌を作り、歌に合わせて皆を踊らせることも、この陽気暮らしの表現化であり、楽天主義を異常なまでに誇張させたともいえます。
人がこの世にある姿として、仏が初めて見て教えたものは「苦」でありました。その苦を解決してこそ人としての本当の幸せがあるとする仏教からは、天理教の陽気暮らしは強く批判されます。つまり、人生の根本問題も解決せず、皮相的な人生観のもとに生活を謳歌しようとする思想であるからです。
天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり〝人の幸せは物・金ではない、心の安住が一番大事な事だ〟〝人の心は自分が物・金をもっていたのでは理解できない、他人に与え、貧乏になりきってこそ本物の人間になれる〟と教えています。
世間の人は、これを
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」
等とやゆったこともあります。
遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)の亭主へのあてつけと、心身共に疲れた家業からの解放が教祖・みきのクーデターの第一目的と判れば、この発想もうなずけます。
しかし、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、国の安寧(あんねい)は計られるでしょうか。また、個々の将来は安泰でしょうか。それらを考える時、厳正な宗教教義でないことが十分判ります。
天理教には一貫した三世の思想はありません。現世だけが中心です。過去は、仏法の業を採り入れた因縁話に終始し、未来は現世に出直すための仮の世とします。ですから、人の死を「出直し」と呼んでいます。教祖・みきがかかわった浄土思想、即ち未来での楽しみでは遅すぎるという抵抗心が、このような徹底した現世主義を作り上げたのではないでしょうか。
「心と肉体は別の物」と説くのも天理教の特徴です。肉体は親神から借りたもので、心だけが自分独自のものとしています。自分の心は、本来は清く正しいはずなのだが、いつの間にか埃がつき、汚く、けがわらしくなってしまった。とし、その汚れた心は八つあるといいます。おしい(惜)・ほしい(欲)・にくい(憎)・かわい(可愛い)・うらみ(怨)・はらだち(怒)・よく(貧)・こうまん(慢)の八つです。この八つの埃は、天理王命に祈ることによって、ほうきで塵を払うが如く払ってもらえると教えています。
大聖人様は、人は本来仏性をもった本有(ほんぬ)の尊形(そんけい)であり、色心も不二にして一体なもの、またその心も一念三千十界互具といわれ、煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳と転ずることができる、と説かれています。経文の「不断煩悩(ふだんぼんのう)・不離五欲(ふりごよく)」等を加えて考える時、天理教の教えの低さがよく判ります。
八つの埃とは人の五欲を指しているようですが、これらを払っただけで五欲等は取れるはずもありません。ところが、天理教では、この埃が全ての不幸を招くともいいます。中でも病気の根元はすべてこの埃だと断定するところから、病人を一番の布教対象にしています。今日ある天理病院はこのような教えに深く関係しているのです。
また、天理教では「そもそも病気とは、親神が人々の悪しき心を反省させるために人間に与えた試練だ」といい、これを「身上(みじょう)」と呼んでいます。更には、家庭の不和や事業の失敗等も、その人の反省を促すところの神意であるとし、これを「事情(じじょう)」と呼んで、すべて自分の「心得違い」からくる不幸だと教えます。
しかし、心と直接、関係のない病気もあれば、また、戦争やまきぞえ事故、あるいは天災等による不幸も世の中には沢山あります。これをすべて個人の「悪しき心のため」と片づけられてよいものでしょうか。しかも、その中で陽気暮らしをせよとは、これまた矛盾といわざるを得ません。
最後に、御書を挙げて破折の文証といたします。
「御病を勘(かんが)うるに六病を出でず。其の中の五病は且(しばら)く之を置く。第六の業病(ごうびょう)最も治し難し。将(は)た又業病に軽有り重有り、多少定まらず。就中法華誹謗(ひぼう)の業病最第一なり」(太田入道殿御返事 御書九一二㌻)
「病の起こりを知らざらん人の病を治せば弥(いよいよ)病は倍増すべし」(種々御振舞御書 御書一〇六七㌻)
「能説に付いては釈迦なり。衆生の業病を消除(しょうじょ)する方では薬王薬師如来なり」(御義口伝 御書一八一二㌻)
「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」(太田左衛門尉御返事 御書一二二二㌻)
(大白法 第三九〇号・三九二号 平成五年七月十六日、八月十六日)