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現実に神や仏がいるとは思われない

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 はじめに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが教典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現わしたことはありません。
 天理教の天理王命や金光教の天地金乃神なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現われたことはありません。
 また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。
 本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
 したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育くむことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮せるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光を法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
 次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗の阿弥陀如来や真言宗の大日如来なども実在したことのない仏です。
 ではなぜ架空ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備わる働きや仏の徳を具象的・擬人的に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。たとえば智慧を文殊菩薩、慈悲を弥勒菩薩、病を防ぎ、癒やす働きを薬師如来・薬王菩薩、美しい声を妙音菩薩というように、それぞれに名を付けられました。
 これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。
 この釈尊が究極の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証されました。その予証とは、法華経を行ずるゆえに刀や杖あるいは瓦石で迫害されること、悪口罵詈されること、しばしば所払いの難に遭うこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難の中で民衆救済のために究極の本法たる文底の法華経を説き、未来永劫の人々のために大御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。
 日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界を現実に示されたのです。
 もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、ためにする言い掛りというべきです。

折伏実践のために

三 証
 「現実に神や仏がいるとは思われない」という疑問を持つ人は、無宗教・無神論の人でしょう。
 無宗教者にも、何でも有り難いと言って手を合わせる無宗教者と、神仏の存在を信じない無宗教者と二通りいますが、この場合は後者です。
 ところで、「イチジクの花を見たことがありますか」と質問したならば、何人の人が「見た」と答えるでしょうか。「見ていない」と言う人の方が多いのではないでしょうか。実は、私たちが実だと思っているものが花なのです。「見ていない」のではなく、「知らない」だけなのです。「現実に神や仏がいるとは思われない」と言う人も同じです。「見ていない」のではなく、「知らない」だけなのです。確かに、世の中のほとんどの宗教で説く仏や神は仮の存在です。間違った宗教には、真実の仏や神は存在しません。
 しかし、正しい宗教における仏や神は厳然と存在するのです。
 日蓮大聖人は、『三三蔵祈雨事』に、
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書 八七四㌻)
と仰せです。文証と理証と現証によって、真実の宗教・真実の神仏が見えてくるものです。
 また『本尊問答抄』には、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(同 一二七五㌻)
と仰せです。最高の本尊・本当の本尊を信仰の対象にすることによって、神仏は顕われ、真の功徳を得られるのです。
 
 仏とは
 世間の人は、仏とは人間離れした仏像のイメージを抱いていますが、仏像や仏画は、人間の創造の産物であって、事実、そのような姿・形をされていたわけではありません。
 仏とは法界の道理を体得された方のことです。
 日蓮大聖人は『開目抄』に、
「夫それ一切衆生の尊そん敬ぎょうすべき者三つあり。所いわ謂ゆる、主・師・親これなり」(同 五二三㌻)
と仰せのように、私たち人間が生きる上で尊敬しなければならないもの、それは主と師と親です。その主と師と親の三徳をすべて具そなえられた方が仏なのです。そして、私たち一人ひとりにも、一分の主と師と親の徳を具えています。仏の生命が具わっているからです。
 
 神は信仰の対象ならず
 「神」と称するものは、代表的なものとして、自然崇すう拝はいの産物と啓けい示じ宗教の神と権力者に都合よく政治の道具として創られた架か空くうの神とが挙げられます。
 古代の人たちは、様々なことに疑問を持ったことは想像に難くありません。たとえば、宇宙の始まり、地球の始まり、人類の始まり、宇宙の支配者、自然現象等の答えの見出せない存在を人類よりもはるかに大きな力を待った「神」として崇拝したのです。
 自然を「神」として感謝し、敬うことは、人間として当然の行為です。しかし、私たちに人間としての様々な道を説くことはありません。すなわち、主師親の三徳を具えていないからです。ですから尊敬の対象ではあっても、信仰の対象にはなり得ないのです。
 
 仏はいらっしゃる
 『正しい宗教と信仰』にも書かれてありますが、仏はいらっしゃいます。釈尊と日蓮大聖人です。その他の経典に説かれる仏はすべて私たちの住むこの国土とは無縁の仏なのです。このことが理解できなければ、「現実に神や仏がいるとは思われない」と思ってしまうことは当然のことです。特に私たちは末法の御本仏日蓮大聖人によってのみ成仏できることを知るべきです。
 日蓮大聖人は『一生成仏抄』に、
「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢え土どと云ふも土に二つの隔へだてなし。只ただ我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦また此かくの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」(同 四六㌻)
と仰せです。私たちが正しい仏法を信仰することによって、成仏することができ、また、その国土は諸天善神に護られた浄土となるのです。
 御法主日如上人猊下は、記念局委員会の砌みぎり、
「決意と情熱と不断の努力ということでありますが、もう一つ、付け加えて言うならば、勇気であります。『勇者は懼おそれず』という言葉があります。邪義邪宗に対し毅き然ぜんとして立ち向かって、折伏を遂行していくという勇気が大事ではないかと思います」(大白法 七九二号)
と御指南されております。決意・情熱・努力・勇気をもって折伏に前進して、自身の成仏と仏国土の建設に精進してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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