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自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 位牌とは昔中国において、存命中に受けた官位や姓名を記した木牌に始まるといわれています。
 日本では、葬儀のときに白木の位牌に法名、俗名、死亡年月日、年齢を記して、祭壇に安置します。これは、回向のためと、参列者に法名などを披露するためのならわしといえます。
 したがって位牌そのものを、礼拝の対象にしたり、死者の霊が宿っているなどと考え、それに執着するのは誤りです。
 位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌を拝んだからといって、死者の霊を慰めることができるというものではありません。
 世間の多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔などの位牌に改め、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関関係もないことなのです。
 真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済成仏させうる力と働きと法門の備わった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身を仏身へ、生死を涅槃へと導くことに尽きるのです。
 日蓮大聖人は、
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御講聞書・新編一八一八)
とも、また、
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」
(九郎太郎殿御返事・新編一二九三)
と説かれています。
 父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提第一の本門の本尊を持ち、その御本尊に整足する成仏の種子たる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。
 したがって位牌も塔婆も、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界互具一念三千の法門の原理が具わるのです。梵字や新寂・空などの字が刻まれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方ではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過を重ねる結果となってしまうのです。

【折伏実践のために】

誤った先祖供養は悪業の因
 私たちは、先祖の位牌を祀まつって供養すると言えば、仏壇に先祖の位牌を安置し、本尊に向かうように手を合わせ、拝む姿を思い浮かべます。
 もともと位牌は、中国の儒家かにおいて「魂の座」と称して儀式等に使われたものが、後に仏教に転入して用いられるようになったと言われます。特に、一般仏教の各宗派では、亡くなった人を仏と呼んだり、位牌そのものを「霊とか霊魂」などと解釈させ、仏壇に先祖の位牌を本尊のごとくに安置させて、それを朝晩に礼拝して供養する習慣を生みました。
 しかし、本来位牌は、御本尊のように信仰の対象として拝むものではありません。また位牌を拝んだからといって、先祖の霊が慰められるものでもありませんから、正しく先祖を供養することにはなりません。
 そもそも、拝むとか祈ると言った行為は、「感かん応のう同どう交きょう」と言って、祈りの対象(対境)となるものと、それを祈る私たち人間の生命とが互いに通じあい、そこに深い作用が働いて祈りが叶います。
 例えば、稲荷信仰のようにキツネを神の使いとか神として祀る神社等に手を合わせて祈ったりすると、キツネ(畜生)の命がそのまま祈る私たちの生命に感応し、人によってはキツネに取り憑つかれて「キツネ憑き」となったりして、大きな悪影響を及ぼします。
 同じように、私たちが位牌等を拝む対象とすれば、位牌を故人そのものと見立てて祈りを捧ささげるわけですから、故人の業や罪障が私たちの命に感応してしまいます。言い換えれば、位牌等を拝み、先祖を崇すう拝はいすることは、亡くなった故人の罪障や罪業をも背負うことになってしまいますから、故人が成仏できないばかりでなく、祈る私たちも共に苦しみの原因となる、悪業の因を積むことになってしまうのです。
 
 先世の業によって生きる
 私たちの体は、地ち水すい火か風ふう空くうの五つ(五大)の元素によって構成され、分離しては集まり、集まっては分離する集合離散を繰り返します。
 日蓮大聖人様は『御義口伝』に、
「我等が頭は妙なり、喉のんどは法なり、胸は蓮なり、胎はらは華なり、足は経なり。此の五尺の身は妙法蓮華経の五字なり」(御書 一七二八㌻)
と説かれ、また『総勘文抄』には、
「五行とは地水火風空なり。(中略)是則ち妙法蓮華経の五字なり」(同 一四一八㌻)
と、私たちのこの身が地水火風空の五大であり、そのまま妙法蓮華経の五字であると示されています。
 これは、人が死ぬと地に返す(土葬)か、火に返す(火葬)か、水に返す(水葬)、さらには自然に返す(風葬)等をもって葬るように、人間は死ぬと元の元素に戻ります。すなわち、人間を形作った肉体は死によって分離され、見た目には無に帰したかに思われますが、心に刻まれた業(善業・悪業等)は滅することなく法界に遍満へんまんします。
 大聖人様が『持妙法華問答抄』に、
「只先世の業因に任せて営むべし」(同 二九九㌻)
と仰せられているように、私たちの今世は、先世の業を原因として生きるのです。すなわち、生まれてから死に至るまでの一生における善悪の果報(業)は、そのまま死後も持ち続け、私たちは未来世をこの業によって生きるのです。
 故に、間違った宗教や教えに惑わされると、それはそのまま悪業となって、今生で苦しむだけでなく、死後もその苦しみが続くのです。

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