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信仰は本人の自由意志によるべきで、他人に強要することはよくない

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 たしかに信仰は他人に強要すべきものではありません。また、他人に強要されてできるものでもありません。
 日蓮正宗でいうところの折伏とは、人に信仰を強要することではなく、日蓮大聖人の教えの尊さと、自ら体得した信心の感動を、一人でも多くの人に語り伝え、喜びを分ち与えたいと思う慈悲心の発露なのです。
 たとえば、病気の子供が苦いからといって薬を飲まない時、親はそのままにしておくでしょうか。無理をしてもその子に薬を飲ませるのではないでしょうか。
 折伏とは、まさにこれと同じです。なぜなら、日蓮大聖人の仏法は、大良薬に譬えられ、人間が生きてゆくための真理が説かれているからです。
 真実の仏法を知らない人は人生の真の目的を知ることもなく、正法の功徳を受けることもできず、無味乾燥の一生を虚しく送ることになります。
 そのようなことのないよう、真実の仏法を一人でも多くの人に伝えたいと思う慈悲の心が、折伏という行動として現われてくるのです。
 また、親なればこそ、我が子にやっていいことと、やってはいけないこととを厳しくしつけるように、折伏は正邪のけじめを正しい仏の教導にしたがって諭し示すことでもあります。
 ですから、折伏は人に信仰を強要することではなく、人生の真理を伝え、喜びを共に分かちあいたいという大きな慈悲行なのです。

【折伏実践のために】

迷いの中にいることを知る
 現在の日本は、「信教の自由」が認められている時代ですから、「信仰は本人の自由意志によるべきだ」と考える人が多いのも事実です。この自由意志という意味は、他から束そく縛ばくされず、強制されずに自らの責任において自由に物事を決めていこうとする意志のことでしょう。
 確かに、こうした人間の自由な意志を認めることは大事な一面だと思います。自分の人生は、自分の手で切り開いていくものであり、幸福を得るのも自分の努力によるものです。
 しかし、ここで問題となるのは、あなた自身が、「自分の心」について深く考えたことはあるか、自分にいかなる人生の苦難をも打開してゆく力があるか、また正しい信仰の意義や目的を知っているか、という点です。
 こうしたことを踏まえて、「自由意志によるべきだ」という発言が、果たして本来の正しい生き方や幸福に繋つながる目的に沿ったものかどうか、真しん摯しに考える必要があります。
 まず「人間の心」について考えてみましょう。正しい信仰を選ぶ場合も「自由意志」によるべきだと言いますが、その自由意志のもとになるのは、凡夫の心です。あなたは自分の心についてどれほど理解しているのでしょうか。
 仏法では、人間は三毒の心に支配され、束縛されていると説きます。三毒とは貪とん欲よく(飽くなき欲望)、瞋しん恚に(自己本位の怒り)、愚ぐ癡ち(正しい見方ができない)のことで、この三つの煩ぼん悩のうが、迷いのもととなっているのです。
 例えば、道に迷っている子供がいるとします。この迷子は今自分がどこにいるか判らない状態にいます。これと同じように、三毒に縛しばられた自分の心が周りの縁に紛動されてしまい、本来の居場所(悟り)に迷っている、これが実は凡夫の迷いの姿なのです。
 よく「自分の力で生きている」「自己責任で生きている」「自分の好きなように生きている」という言葉も耳にしますが、仏法ではそうした考えも「迷い」だと説くのです。
 自分の「我」を中心に生きるため、物事に対し一喜一憂して心が定まらない。この状態が「迷い」なのです。
 それでは実際に自分が「迷子」になったらどうするでしょうか。まずは自分が迷ったことを知ることでしょう。それから、今の場所を知ったり、人に道を尋ねたりして、自分が帰るべき家を知る手がかりを探すでしょう。
 これと同様に、人間の「迷い」の状態に対しても、仏法の道理に照らして、自分が「迷い」の中にいることを自覚することが信仰の出発点なのです。
 正しい信仰を求める姿勢としては、まず自分自身を省かえりみて、現実に「迷っている」「苦しんでいる」ことを謙虚に知ることです。このことが、正しい宗教によって人間の迷いや苦悩の悪循環から抜け出す第一歩となるのです。
 
 心を師とせず心の師となれ
 さて現実を振り返って見ると、仕事や健康、人間関係等の悩みは誰もが抱えて苦しんでいるはずです。
 こうした人生の問題の中で、自分の思い通りにならない、あるいは自分の意志のままに物事が進まないという現実があります。この事実を仏法では「一切は苦である」と説いています。
 この「苦」の根本原因をつきとめ、そうした苦悩をどう乗り越えていくのか。また、苦悩のもととなる凡夫の迷いの心に対し、どうすれば迷いから脱し幸福に生きることができるのか。その方法を実践的に説かれたのが日蓮大聖人の仏法なのです。
 大聖人様は、
「心の師とはなるとも心を師とせざれとは、六波羅蜜経の文なり」(御書 九八七㌻)
と御教示なされています。
 御法主日如上人猊下は、この御文中の「心を師」としている凡夫の迷いの状態について、次のように仰せです。
「とかく、人の心は貪とん瞋じん癡ちの三毒などによって、欲望のままに移り変わり、あるいは環境に応じ、あるいは時のままに流されて、刻々と移り変わっていくものである。自分では、自分の心をコントロールしようと思っていても、なかなか思うようにはならないのが常である。
 結局、自分では自分の心をコントロールすることができなくなって、邪見、憍きょう慢まん、瞋しん恚に等の諸悪の心を生じ、それによってますます自分の心を制御できなくなり、不幸の道へ迷い込んでいくことになる」(御法主日如上人猊下御指南集五 一三㌻)
 自分の心を正しくコントロールできる強い自分を作り上げるのも、仏法の功徳によるのです。つまり人間本来の正しい意志や幸福な境涯は、むしろ正しい信仰を実践した後に功徳として証得できるものなのです。
 自分の成仏(真の幸福)のためには、自分の迷いの心に随したがうのではなく、正しい仏法を実践して三毒の心を制せい御ぎょし、「心の師」となれる勝れた人格を形成することです。これが正しい信仰を求める目的と意義なのです。
 
 折伏を受けて宗教の正邪を知る
 あなたが考えるように、信仰の選択は自分の自由意志で決めると言っても、凡夫の迷いや無知の心で、信仰に対する正しい判断はできないはずです。また宗教は何でもよい、という訳にはいきません。特に人間の不幸の根源は「謗法」(正しい法に背くこと)にあることを知るべきです。
 謗法の誤った宗教がもたらす悪影響は、人間の生命に深く刻まれていきます。そしてその害毒によって、不幸や災厄が生活に現われてくるのです。
 それ故に、折伏を受けて宗教の正邪や謗法の害毒を知って、その上で正しい信仰を選ぶべきです。
 日蓮大聖人は折伏の功徳について、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒どっ鼓くの縁となって仏になるべきなり」(御書 一三一六㌻)
と仰せです。「毒鼓の縁」とは、毒を塗った太鼓を叩くと、その音(妙法)を聞こうとしない逆縁の衆生の耳にも届き、法華経の功徳によってやがて煩悩を退治して、成仏することができるという意味です。
 ですから「折伏」は信仰を強要することではありません。妙法を相手に聞かせる折伏の実践と功徳によって、逆縁の人であっても必ず成仏させることができる尊い慈悲行なのです。
 正しい信仰の目的や意義、功徳を知らない人々に対して折伏をすることこそが、広宣流布と一生成仏への正しい信仰の道だと言えるのです。

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