念力とはなにか

「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 「念力岩を通す」ということわざがありますが、一般には念力といえば、心をひとつにして願うことによって、他者に対して特別な力を発揮することを指しています。
 ひところいかがわしい念写やスプーン曲げが話題になりましたが、心という精神作用がそのまま物質に影響を与える現象は、現代の物質偏重主義の一部の人々に少なからずショックを与えたのかも知れません。しかし念力自体は心のはたらきですから普通の人間でも多少は持っているものですが、だからといって実際に現象を起こせる人がこの世にはどれほどいるかといえば、はなはだ疑問です。
 こうした超能力ともいうべき念力を用いた話は古くからあり、たとえば山岳宗教の修験者が念力によって何百メートルも離れたローソクの火を消したりして、あたかも霊験あらたかのように人々を思い込ませる手段としたこともありました。しかしよく考えてみると、このような特殊な、しかも見せ物まがいの念力が、私たちの生活や人生によい影響を与えることはなく、むしろ何ら必要としないものです。
 では仏教では念力についてどのように説いているでしょうか。維摩経などには成仏を目指す修行の障害を対治する力として五力が説かれています。五力とは信力・精進力・念力・定力・慧力をいい、この中の念力とは憶念の力ということです。簡単にいえば、仏の教えや本尊・修行などをしっかり心に記憶して忘れない働きです。
 また仏典には、
「若し念力堅強なれば五欲の賊中に入ると雖も害せられるところなし」(遺教経)
とあり、仏法僧を念ずる力によって、いかなる魔縁にあっても紛動されることなく、仏道を成ずることができると説かれているのです。正しい仏法によって真の幸福を目指す私たちは、迷いの人間による表面的な念力などに惑わされることなく、御本仏日蓮大聖人の教えを心にしっかり持ち、御本尊に日々唱題することが真実の念力であることを知るべきです

【折伏実践のために】

念力に左右されてはいけない
 一般的に、意志の力によってサイコロの目を思い通りに出すとか、思いを集中してスプーンを曲げたりするなどの現象は、心の作用が物質に影響を与えるもので、念力と言います。
 ことわざで「念力岩を通す」とか「一念岩をも通す」ということは、全く不可能と思われることも、心を集中して精いっぱい事に当たれば、成し遂げられないことはないとの意味で使われています。
 ですから、心の用はたらきとしての念力は、人間誰しもが持っているものです。仮に何らかの鍛錬たんれんや修しゅう練れんの結果、超人的な念力を持った人がいたとしても、それが何か人間生活によい影響を与えるものではなく、かえってそのことに振り回されてしまうことは、マイナスとなることを知らなければなりません。
 大聖人様は、
「通つう力りきをもて知者愚者をばしるべからざるか」(御書 二三三㌻)
と示され、超人的な能力を持っているから勝れた人であるとは言えず、逆にそのような能力に頼ったり、信じたりしてはいけないと厳しく仰せられています。なぜなら、正しい仏法を見失わせ、成仏への障害となる魔の所為となるからです。また、
「通つう力りきある者を信ぜば、外道・天魔を信ずべきか。(中略)仏の最後の禁いましめに、通を本とすべからずと見えたり」(同 三三〇㌻)
と、通力のある者(超能力など)を信ずることは、天魔、外道を信ずるようなもので、絶対にあってはならないと戒められています。
 
 大切なことは成仏を遂げること
 私たちが今こん生じょう人間界に生を受けた目的は、念力のような超人的な力を得ることではなく、成仏という揺るぎない幸福境界を確立することにあります。
 大聖人様は、
「成仏するより外の神通と秘密とは之これ無きなり」(同 一七六六㌻)
と仰せになり、即身成仏という我々の生命の中に、清しょう浄じょう無む垢くな仏の境界を顕現することが、肝要であることを御教示されています。
 大聖人様が、
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(同 一三二一㌻)
と仰せられているように、正境たる南無妙法蓮華経の御本尊に向かい、唱題することによって、自身の仏性が開き、成仏することのできる道理を示されています。そして、
「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同 一五九四㌻)
と、大聖人の御題目には、自行である自分自身の福徳を成就するだけでなく、化他である他の人々を折伏教化し、利益する功徳をも具そなえていることを教えられています。
 
 仏教で説く正しい念力の在あり方を教えよう
 ここで大事なことは、大聖人が、
「此の経をき聞ゝう受くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども『憶おく持じ不ふ忘もう』の人は希まれなるなり。受くるはやす易く、持つはかた難し。さる間成仏は持つにあり」(同 七七五㌻)
と、成仏を遂げるには「憶持不忘」の人でなくてはならないと仰せです。
 この「憶持不忘」とは、いついかなる時も御本尊のことを忘れず持ち続けることを言います。
 仏教では、先の本文に示されたように五力の一つとして念力が説かれています。念力とは「憶念の力」であり、憶念とは、心に念じ持ち続け、忘れないことです。
 天台大師は、受持について『法華文句』に、
「信力の故に受け念力の故に持つ」(同㌻)
と仰せられ、仏の教えや本尊を受けることと、持たもつことの違いを示され、持つことは念力の力によるとされています。
 つまり、正しい信心において持つということは、御本尊を常に心に念じ、忘れないことであり、そのために自行化他の修行に励むことこそ肝要です。
 そして、その強ごう盛じょうなる念力の結果として、成仏が叶うことを知らなければなりません。
 世間で言う誤った念力の概がい念ねんを破折し、それに執とらわれる人々を救うため、この仏教で説く正しい念力のあり方を多くの人々に伝えましょう。
 御法主日如上人猊下は、
「信心とは理屈ではなく、実践行動であります。なかでも我々は、折伏という実践行動を起こしてこそ、過去遠おん々のん劫ごうの罪障を消滅し、一生成仏を遂げることができるのであります。
 まさしく、神力品の「我が滅度の後に於て 応に斯この経を受持すべし 是の人仏道に於て 決けつ定じょうして疑有ること無けん」との御文を拝し、己れ一人だけではなく、不幸にあえぐ多くの人に妙法の偉大なる功徳を説き、折伏を行じていくことが肝要となるのであります」(大白法 八一三号)
と仰せられ、さらに、
「これからの戦いは、けっして楽な戦いではないでしょう。支部が大きくなればなるほど、池田創価学会をはじめ、あらゆる魔が必ず妨害をしてきます。しかし、どのような妨害・障害があろうとも、それを乗り越えていくためには、今言ったように、折伏をしたら、その折伏された人を広布の戦士として戦いきれる人材に育てていくということが大事ではないかと思います」(同 八二九号)
と、仰せです。
 私たちが御命題達成に向かって、広布の大道を歩む中、多くの障魔が競い起こってくることは間違いのないことです。
 したがって、常にこの御法主上人猊下の御指南を忘れず持ち続け、広宣流布の闘いに身を投じ、折伏と育成に果か敢かんに取り組むことが、今最も必要とされる念力であることを心得て、本年の折伏誓願目標達成に向かって精進してまいりましょう。

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