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信仰は老人がするものではないのか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
「信仰は年寄りがしていればよい」という意見には、信仰に対する無理解と老人に対する偏見が潜んでいるように思われます。
 正しい信仰が人生にもたらす作用はさまざまなものがあります。その中の主なものを挙げてみますと、
 1  正しい教えを信ずることによって、考え方や人生観が広く正しいものになる。
 2  日々の信仰修行によって身心ともに健全な人間として鍛錬される。
 3  精進心すなわちこつこつとたゆまぬ努力を積み重ねる心が培われる。
 4  敬虔な心・感謝の心・思いやりの心が養われる。
 5  日常生活が信仰の功徳力によって仏天に加護される。
などがあります。
 このように人生に大きな意義をもつ信仰が、若い人と無縁であるというのはまったく的はずれな暴論というべきです。
 むしろ、「鉄は熱いうちに鍛えよ」という言葉どおりに、人生の基礎となり土台となる若い時こそ、正しい宗教を信仰し修練を積むべきなのです。
 ビルを建てる場合でも地中深く打ち込まれた盤石な基礎があれば、その上に立派な高層建築を建てても微動だもしません。これと同じように、若い時に目先の欲得や表面的な楽しみに流されることなく、信仰を根本としてしっかりした人生観と人間性を養うことが将来の大きな力になるのです。
 また本人がいかにまじめな努力家でも、いつ不慮の災難にまき込まれるかわかりません。一瞬の事故によって一生を台なしにするような事件がいたるところで起きていることを考えると、やはり仏天の大きな力によって日々守られることも、若い人が充実した生活を築くための大切な要件といえましょう。
 たしかに低級思想や迷信に走る宗教、あるいは形骸化した既成宗教の姿に対して、若い人だけでなくすべての人々が失望し、むしろそれらを忌避しているというのが現実です。
 しかし真実の生きた宗教は、老若男女、人種などの差別なく、すべての人に生きる力を与え、何ものにも崩れない安穏にして自由な境涯を確立させるところに、その目的があるのです。また、道を志すことに遅いということはありません。青年・壮年・熟年を問わず正法に帰依することは幸福の絶対条件ですが、健全な苗木が大木・名木に成長していくように、伸びゆく青年時代に信仰に励むならば、それだけ人生の大きな力となり、強固な礎となるのです。
 現在日蓮正宗には、何万名もの青年が自己の確立と社会平和のために、情熱をもって信心修行に励んでいます。

【折伏実践のために】

信仰は現実生活の根本
 一般に世の中では「信仰」といえば、老後に対する不安とか、死後への漠ばく然ぜんとした恐れなどをなくすための、儀礼的なものと考えられているようです。
 しかし「信仰」というものは、現実の生活を幸福に生きるための根本法ですから、人間としての正しい生き方や考え方そのものを形作る大事な要素なのです。
 
 因果を説くのが仏法
 その一つとして仏法では因果の理法を説いています。因果とは物事には必ず原因と結果があるということです。特に仏法の因果は「自業自得」(自分の行いの報いは自分が得る)ということが基本です。
 自分が幸福になるのも、不幸になるのも、その責任は世間や他人にあるのではなく、自分自身の行い(業)にあるというのが仏法の教えです。
 因果を無視した信仰は、邪見といって幸福になる道とはなりません。因果を説かなければ、たとえば病弱に生まれたのも、貧乏な家に生まれたのも偶然だということになります。これらの不幸が偶然に起こったとすれば、原因が判らないわけですから対処のしようがありません。
 しかし正しい信仰は、不幸になる原因や幸福になるための方法を説くので、幸福な結果をもたらすことができます。正しい信仰によって正しい生き方を学び、幸福になる因を積み、その結果として幸福になることができるのです。
 
 三世の生命
 また、仏法では「三世の生命」を明かしています。私たちの生命は死によって無になるのではなく、因果の法則に基づいて生から死へ、死から生へと形を変えながら繰り返し続いていくのです。
 大聖人様は、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書 五七一㌻)
との経文を挙げられておりますが、すなわち過去が現在を作り、現在が未来を作るのです。
 たとえば現在の自分の生活が苦しいものであれば、その原因は自分の過去の業(行為)によるのです。ですから、今の苦悩から抜け出して将来幸せな生活を送りたければ、今の自分を悔い改めて正しい信仰をしなければなりません。過去を反省して正しい仏法を信仰するならば、「成仏」という絶対の幸福境界を得ることができます。
 
 正しい信仰は「四苦八苦」を解決できる
 しかも、その成仏の功徳は末来に向けて味わっていくことができるのです。しかし、正しい信仰に無関心であったり、背くことがあったりすれば、それが原因となって、現在と未来に亘わたって苦悩を感じ、ますます不幸になっていくのです。
 仏教では「四苦八苦」ということを説いています。すなわち、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、死を迎える苦しみ、という「生老病死」の四苦、さらに、愛あい別べつ離り苦く(好きな人と別れる苦しみ)、怨おん憎ぞう会え苦く(嫌な人と会う苦しみ)、求ぐ不ふ得とっ苦く(欲しい物が得られない苦しみ)、五ご陰おん盛じょう苦く(身体から起こる苦しみ)の四苦を合わせて「四苦八苦」と言います。
 正しい信仰によって、老若男女を問わず、こうした人間の根本苦である「四苦八苦」を因果の上から解決することができます。
 
 因果の間に「縁」がある
 このように正しい生き方や考え方の基本となるのが「因果」の教えですがさらに厳密に言うと、因と果との間には縁があるのです。もしも因果だけであったとすれば、単純な機械論的なものになってしまいます。つまり過去に悪いことをした者は、今世にその報いとしての苦しみをずっと受けなければならなくなってしまうのです。
 ところが因果の間に「縁」があるからこそ、人間の宿命を変えることができるのです。仏法の因果の法理には、この「縁」の立場が合わせ説かれているのです。
 
 正邪は本尊で決まる
 そもそも宗教には、信仰の対象(縁)となる「本尊」があります。本尊とは、信仰の根本として尊敬すべきものという意味です。したがって本尊は人間の生命を変える「縁」となるものです。
 たとえば、稲何(キツネ)やヘビや金比羅(ワニ)を信じて拝んでいる人がいます。これはキツネやヘビ、ワニなどの畜生を「本尊」として信仰しているのです。人間として生まれながら、こうした畜生を自分の人生の根本として尊ぶというのでは、とうてい正しい生き方はできません。
 畜生を本尊とするということは、それに感応して自分自身がだんだんと畜生の生命になっていきますから、やがては人間としての正常な知恵や人格などが失われていくのです。
 御法主日如上人猊下は、
「御本尊という最高の縁に触れた時に、例えば過去遠々劫以来の様々な罪障を背負ってきた者であっても必ず仏界が涌現し、そして仏性が仏性として開けてくると、その罪障もすべて消滅することができるわけです」(大白法 七四七号)
と仰せです。正しい御本尊を信仰することによって、自身に仏の生命を現わし、人格を磨いて、人生を切り開いていくことができるのです。信仰は生きる力を養うのですから、青年期こそ正しい信仰を求めるべきです。

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