姓名判断をどう考えたらよいのか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 とかく占いというものは、当たった部分だけが誇張され、はずれた場合はあまりこだわらない傾向が強いようです。
 なかでも姓名判断はよく当たるという人もいますが、はたしてどうでしょうか。
 いくつかあげられた占いのうちひとつでも該当すれば、当たったように錯覚しがちですが、裏を返せばそれ以外は皆はずれているということになります。
 ある姓名判断の本には、
 「漢字そのものには命が込められてあって、人の運命をも作り上げる。そしてそ の運命は名前が付けられたときからスタートしていく」
といっています。
 しかし、人の運命が名前をつけられたときにスタートするというのでしたら、名前が付けられる前に死んでしまう子供や、生まれながらにしてすでに不幸な境遇のもとに生まれた子供はどのように解釈したらよいのでしょうか。
 また名前によって運命が決定されるならば、同姓同名の一人が総理大臣になれば、その他の人も同じ地位につくはずですし、反対に一人が不幸な人生を送れば、同姓同名の人も同じようでなければならないはずです。
 これについて、さきの本には、「成功、不成功のちがいは、職業の選択や環境(人間関係)によってきまる」と弁明していますが、職業と環境にめぐまれることが成功の条件だというならば至極当然の話にすぎませんし、いまさら姓名判断をまつ必要もないということになります。
 これらのことからみても、姓名判断の根拠が実にあいまいであることがわかると思います。
 また姓名判断の方法をみると、画数によって占うのが一般的で、字画の数え方も流派によってそれぞれ違うといわれています。
 たとえば、くさかんむりの字画は、三画、四画、六画など、数え方はまちまちですし、さんずいも、三画、四画というようにさまざまです。そうしますと、同じ人を占うにしても画数が違えば当然異なった判断が出てきますから、これではいったいどちらを信じればよいのか、これほどいいかげんな占いはないということになってしまうのです。
 歌手などがデビューする時に、姓名判断の専門家に依頼して、よい名前を選んで付けるようですが、毎年多くの新人が出ても、スターになる人はほんのわずかで、ほとんどは消え去ってしまいます。この現実は姓名判断がいかにあてにならないか、という見本であろうと思います。
 人間の一生は姓名によってきまるものではありません。まして改名によって幸福を得られるものでもないのです。
 私たちの生命は、三世にわたる因果の理法にもとづいているのです。現在の果報は過去の因によるものであり、未来の果報は現在の因によってもたらされるのであって、私たちが永遠の幸福を求めるのであれば、その正しい因がなければ絶対にかないません。この正しい因こそ妙法であり、御本尊を信受する以外に真の幸福はありえないということなのです。

【折伏実践のために】

姓名判断に惑わされない
 姓名判断とは、辞書を引いてみると、
「姓名の音や画かく数すうの配合などによって、その人の運勢・適業などを判断しようとすること」(広辞苑)
とあります。これは、いわゆる一般的に占いと言えるものです。
 「自分の姓名による運勢を知り、これからの生活をよくしたい」、または「子供(赤ちゃん)の命名の参考にしたい」と姓名判断に興味を持ち、利用する人々が大半でしょう。
 しかし、姓名判断によって自らの人生を正しく知り、正しく解決することなどできないことは本文にある通りです。
 しばしば、芸能を職業に持つ人が、姓名判断を根拠に改名を行うことが話題になります。しかし、結果はどのようなものでしょうか。
 また、姓名判断を参考に名前をつければ、子供たちが必ず立派に成長するのでしょうか。
 このようなことは、少し考えてみれは答えが見つかるはずです。
 姓名判断に関する本やウェブサイトには、「よく当たる」「的中」「幸福」などの文言があふれています。これに、少しも惑わされることがあってはなりませんし、けっして躍らされてはなりません。
 
 姓名は過去からの因縁による
 宗祖日蓮大聖人様は、『寂日房御書』に、
「一切の物にわたりて名の大切なるなり」(御書 一三九三㌻)
と仰せられています。
 また、「名は体を表わす」という諺ことわざもあります。したがって、「名前が大切である」と考えることは、とても大事なことです。
 しかし、だからといって、姓名判断に頼るのは安直なことと言わざるを得ません。なぜなら、その諺の意味をとったとしても、名によって表わされる「実体」を無視して、命名や改名が行われることは避けなければならないからです。
 大聖人様は、
「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」(同)
と御教示ですが、親子の縁は偶然のものではなく、互いの宿世の因縁によるものです。
 私たちは、過去世においての善悪にわたる様々な自らの振る舞いの結果として今世の生を受けているのであり、その受け止め方と振る舞いが異なる故に、それぞれの境界も異なります。
 これは、親と子においても同様であり、その中で親子の縁が結ばれるのです。この「実体」をよく知るべきです。
 その上で、親として子に対し、深い慈愛を持って、我が子の成長を願って適切に命名をなすべきでしょう。
 昨今、名前の付け方において種々問題や議論があるようですが、このことを弁わきまえることができれば問題は起きるはずがないのです。
 さらに言えば、自らの姓名も過去からの因縁によるものです。
 これらの理法を持ち合わせない姓名判断によって、人を正しく判ずることなどできるはずがありませんから、このような占いを基として人生を図ることがあってはなりません。
 
 自らの姓名にふさわしい人生を
 正しい大聖人様の仏法を知らない人々は、世間の風潮に流されて、どうしても自らの短い人生の物差しで物事を判断し、目先のことばかりにとらわれて、人生の道標を見落としてしまいます。
 そこで御法主日如上人猊下は、
「仏様は三世を透徹した上から私達に正しい生き方を教えてくださっている」(大白法 七二四号)
と御指南されています。この御言葉を多くの人々に伝えて、三世の生命が説かれる真の仏法に基づいて人生を歩んでいくことの大事を教えることが肝要です。
 心地観経というお経に、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書 五七一㌻)
とあります。この仏法における因果の理法を正しく理解することが大切なのです。現世の生まれた境遇は、自らの過去世の業の因縁によって築かれたものであり、殊ことに不幸の原因は、
「すべて邪義邪宗の謗法の害毒にある」(大白法 六九三号)
と、御法主上人猊下が御教示なさっています。
 したがって、私たちが正しい因である真の仏道を求める大事は、それは謗法の一切を捨てて、大聖人様が顕わされた南無妙法蓮華経の御本尊を受持信行していくことであり、そこに真の功徳が具そなわるのです。
 この功徳を積んでいくことによって、自らの性名にふさわしい人生を正しく幸福に歩んでいくことができるでしょう。

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