宗教の必要性を認めない

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。
 しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。
 確かに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位を得るということは、尊い一生の仕事であり、これとても、並たいていの努力でできるものではありません。
 真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針を与えるもっとも勝れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められた願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育くむことになるのです。
 たとえば、山の中の小さな谷川を渡るのには、航海術を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原を渡るには、正しい航路を知り、進路を定め、航海するための知識や技術が、どうしても必要なのです。
 私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達するための知識や訓練ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。
 真実の宗教を持たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。
 釈尊は涅槃経というお経の中で、信仰のない人のことを、
 「主無く、親無く、救無く、護無く、趣無く、貧窮飢困ならん」
と説いています。
 すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、もっとも慈愛の深い親を持たず、仏の救済もなく、護られることもなく、何を目的として生きるのかということを知らず、正法の財宝(功徳)に恵まれない、心の貧しい人だというのです。
 さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面しなければならないことなのです。
 実際に自分がこうした苦悩に遭遇した時のことを想像してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このような悩みや苦しみを乗り越えることができるのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換させることは容易なことではありません。
 まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏な、しかも行きづまりのない自在な境涯を開拓して生きるなどということは、できるものではありません。
 ここに、正しい信仰によっていかなる障魔にも負けない不屈の闘志と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。


折伏実践のために

宗教とは人格向上の教え
  『開目抄』に、
 『三皇已前は父をしらずヽ人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす』。(御書 五二三ページ)
とあります。畜生に等しかった人間が、賢人・聖人の教育によって、人間として成長するのであります。しかし、同書に、
 「此等の賢聖の人々は聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるかごとし」(同 五二四ページ)
とありますように、完全な教えではありません。
  『崇峻天皇御書』に、
  「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて侯ひけるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、ほかなきを畜という」(同 一一七四ページ)
とあります。仏法によってこそ人格が成長するのであります。
 宗教とは三世を見通すことができる最高の師によって導かれる。「生きるための教え」です。人間が人間らしく正しく生きるための教えです。

正しい師を得ることが大事  
 仏教では、私たちのことを「三毒強盛の凡夫」と説いております。これは、「欲望と瞋と無知という三つの汚れた心のあふれる凡夫」であるという意味です。
その「三毒強盛の凡夫」が集まり、正しい宗教によってみんなの心が浄化され、お互いが鏡となり、育み合って、私たちは、人間としての生命の境界を高めていくのであります。
 人間というものは、吟かのことはよく見えても、自分のことは見えないものです。ですから、他人を通して自分を見るほかありません。ですから、周りとの関係が必要なのです。ただし、自分を映す鏡であるはずの他人がゆがんでいたり汚ていたならば、自分を正しく知ることはできません。それ、故正しい人・立派な人・すぐれた師を求めることが大事であります。
 宗教の必要性を認めないという人は、「無宗教」であり、また「自分宗」と言えるものです。そういう人は自分自身が師匠であり、自分自身を信仰の対象にしているわけです。煩悩だらけの自分を師匠としても、人間としての進歩は、難しいと言わねばなりません。
 勉強・スポーツ・華道・茶道・将棋や囲碁にしても、よい師匠・先生に指導してもらえば、早く間違いなく上達します。独学では、そのような進歩はあまり望めません。ましてや、人間としての境界を高め育てる宗教においてはなおさらのことです。

 善行は正法より生ず
 「七仏通戒の偈」とい仏教で非常に有名な文があります。
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」というもので、「もろもろの悪いことをしてはいけない。もろもろの善いことをしなさい。そして、自分の心を綺麗にしなさい。これがすぺての仏様の教えです」というものです。
‘このことについて前御法主日顕上人猊下は、
 「仏教の教えは広く大きいけれども、ひとくちに言うと『七仏通戒の偈』ということがあります。ここに一切を束ねられておるという意味があるのです。(中略)これは、あらゆる意味から善悪を知り、自らそれに基づいて心か浄く持っていくことが、すべての仏様の教えであり、同時にあらゆる衆生に共通するところの道であるということであります」(大日蓮六一三号)
と御指南されております。
 人生における根源の師たる日蓮大聖人様は、正しい仏道を修するため、その根源を本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法として顕わされました。この三大秘法こそが、私たちの人生の帰命依止の本尊なのであります。
  私たち人間に必要なものは欲望と瞋と無知な生命を浄化する力のある正しい宗教です。宗教は心の教えであり、命の教えであり、人間が本当に幸福になるための教えです。正しい宗教は、人間を或長させ、真の平和な国土を作るものです。

 宗教の必要性を説いて折伏
御法主日如上人猊下は本年の『新年の辞』において、
 「今、国内外を見ると(中略)混沌とした世相を映し出しています。こうした人心が極度に混乱した濁悪の世の中を救っていぐ唯一最善の方途こそ、『仏法は体、世間は影』の原理に随って、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の正法正義を受持する我等一人ひとりが、地涌の使命を自覚して、一切衆生救済の大願に立ち、一人でも多くの人に妙法を下種し折伏を行じていくことであることを銘記しなければなりません」(大白法七八〇号)
と御指南されております。
 今、日本に、また世界に必要なものは本物の宗教です。日蓮大聖人様の正法正義であります。
 私たちは御法主上人猊下の御指南の通り、御本尊様を絶対と信じて御題目を唱え、そこからあふれる功徳と慈悲の心をもって果敢に折伏してまいりましょう。

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  • 残暑見舞い 2024年9月8日
    残暑お見舞い申し上げます。 立秋は過ぎましたが暑い日が続きます。 お体をご自愛ください。

管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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