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自分は忙しくて時間がないので信仰ができない

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 現代はたしかに忙しい時代です。いまや国民のすべてが時間との闘いにあけくれているといっても過言ではありません。
 駅の売店で牛乳とパンを流し込んで会社に急ぐサラリーマンや、何秒と違わない先を急ぎ、無理な追い越しのために死亡事故を引きおこしている車社会の様相などは、まさに時間地獄とでもいいたいほどです。
 また、家事・育児のほかにパートで働く主婦、学校が終わるや学習塾に走る子供たち、定年後も生活のために働く老人など、あらゆる人々が働きバチのように目まぐるしく、時間に追われるように生活しているのが現実です。
 これは、誰もが現代社会の中でよりよい生活を求め、社会のスピードに遅れまいとする心の表われといえましょう。
 しかし、どんなに忙しい人でもまったく睡眠をとらないわけではないでしょうし、食事の時間や新聞を読む時間ぐらいはあるはずです。
 たいていの人は「忙しい忙しい」といいながら、友だちとのおしゃべりや晩酌、テレビなどで一時間や二時間を費やしているのではないでしょうか。
 これは本当に時間がないのではなく、心にゆとりがないということであり、忙しいと感ずるかどうかは、その人の身体と心の許容量の問題であるといえましょう。
 ですから「時間はできるものではない、時間は自ら作るものだ」という言葉も、自分自身の心にゆとりを持つことを教えているのです。
 もし、身心の許容量が小さく、通常の生活で精いっぱいの人や、仕事と家庭以外には手が回らないという人がいたならば、このような人こそ仏法によって色心(肉体と精神)両面を錬磨し、力強い生命力と豊かな人間性をとり戻す必要があります。
 また、もし本当に寝る時間もないほど忙しい人がいるならば、その人は自分の苦労や努力がはたして正しい方向に進んでいるのかどうかを考えるべきです。
 せっかく身を粉にして努力しているのに、正しい人生設計も明確な目的も持たないならば、「骨折り損のくたびれ儲け」になってしまいます。
 人間としてもっとも大切な大目的を教え、人生のもっとも正しいあり方、考え方を説き示したものが仏法です。この仏法を信じ行ずることによって自分の生命の中に英知と力が備わってくるのです。
 たとえていえば、間違いのない標識と、どんな悪路や坂道でも乗り越える車があって、はじめて目的地に到達するように、正しい教えと正しい信仰によって、人生の苦労や努力が実るのです。
 ですから、忙しい人ほど人生の根本の指針として正しい信仰が必要であることを知るべきです。

【折伏実践のために】

正しい信仰で幸福な生き方を
 あなたは毎日忙しい生活を送っているかも知れません。しかし、「忙しくて時間がない」という理由だけで、正しい信仰を求めようとしないのはたいへん愚かなことです。
 そもそも正しい信仰とは生活の根本法ですから「忙しいから信仰はできない」という考え方自体が間違っているのです。生活にゆとりが生まれ暇ができれば信仰ができるというわけでもないでしょう。
 私たちが幸福に生きる上で一番大切なものは何でしょうか。まずは正しい信仰とは何か、という基本的なことに耳を傾けるべきです。
 現代人の多くは、一日二十四時間という時間の制約に縛られ、あるいは忙しいという思いが先に立って、心身共に余裕もなくなってしまい、「自分が生きている」という実感さえ涌かないのが現状なのでしょう。
 また一方では、何となく生きているだけで、目標や生きがいもなく、ただぼんやりと過ごしている人もいます。
 このように時間に縛られ忙しさに追われて生活している人も、時間を有意義に活かせず人生に溺おぼれているような惰性的な生活をしている人も、共に仏法で説く正しい信仰に基づく幸福な生き方をしているとはとうてい言えません。
 
 時間を活かす生活
 大聖人様の仏法は人生における正しい生き方や考え方を説いており、正しい信仰を実践することによって、生きるための智慧と慈悲、あるいは力強い生命力などが得られます。
 また、正しい仏法によって時間に追われる汲きゅう々きゅうとした生活ではなく、心にゆとりを持って物事に正しく対処できるようになるのです。
 日蓮大聖人様は、
「法華経の行者の祈る祈りは、響きの音こえに応ずるがごとし。影の体かたちにそえるがごとし」(御書 六二六㌻)
と仰せです。山に向かってヤッホーと声をかけると、ヤッホーとこだまが返ってきます。あるいは日が照る中に体を置けば、必ず影が現われます。これと同じように仏法(法華経)を信仰する人の祈りは、必ず叶うのです。
 仏法では因縁の教えを説いています。因縁という言葉の「因」とは物事の原因のこと、「縁」とは因を助けて結果を生じさせる用はたらきとなるものです。仏法では因縁が正しく揃えば、必ず結果が出ると説いています。
 私たちの中には、「仏性」という時間に妨げられない自由自在なる仏の生命が内在しています。しかしその仏性は自分の力だけでは顕わすことができないのです。
 仏性という最大の可能性を引き出すためには正しい「縁」に出会わなければならないからです。仏性(因)は正しい信仰の縁に触れることによって初めて現われてくるのです。
 あなたがこの「仏性」が自身の心の中に内在していることを知り、もし仏法を少しでも実践するならば、すでに述べた通り今までの時間に追われる忙しい生活から脱却して、時間を自在に活かす人生を送ることができるでしょう。またその結果、人生の苦労や努力も正しく実っていくはずです。
 
 生命の尊厳を取り戻すために
 ここで改めて「時間」というものについて考えてみましょう。
 人間はこの世に生まれてきて一日二十四時間という時間が平等に与えられています。その限られた時間をどのように感じ、どのように過ごし、どのように活かすかは個人の生き方の大事な一面でありましょう。
 また、同じ一時間が好きなことをしているとあっという間に過ぎ、苦痛な出来事に遭遇すると長く感じてしまうことがあります。このように私たちは物理的な時間とは異なる、人間の感じる心的な時間があることも経験します。
 仏法では深遠な時間論、空間論、生命論を説き明かしていますが、まずは仏法を信仰して日常生活の「時間」に対して初歩的な接し方を学ぶのがよいでしょう。
 大聖人様は、
「命と申す物は一いっ身しん第一の珍宝なり。一日なりともこれをの延ぶるならば千万両の金にもすぎたり」(同 七六一㌻)
と、人の生命の尊さについて述べておられます。
 この生命とは一面から言えば、一生を終えるまでの生きている尊い貴重な「時間」のことと言えます。一日一日を過ごす生命の充実感を味わうことなく、ただ忙しさに追われ、生活に埋没するような生き方こそ生命を貶おとしめることになるのです。故に人間の生命の尊厳を取り戻すためにも、正しい仏法の信仰が必要なのです。
 御法主上人猊下は、
「この平等に与えられた尊い時間をいかに生きるか、いかにしから価値ある時間とすることができるのか、いかにしたら広布のために役立つすばらしい時間とすることができるのか。それとも、愚かにも、またとない貴重な時間を無為に過ごして悔いを万代に残すのか。それを決めるのは、我々自身であります。我々自身の信心であります」(大白法 七〇五号)
と仰せです。
 私たちも自行化他の仏道修行に尊い時間を割さくことが、我が命を仏様に捧げ、蘇そ生せいすることであると自覚し、一層団結前進してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
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