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信仰をしていても悪い人がいるのではないか

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 信仰していない人は、よく「信仰をしていても、こんなに悪い人がいるから信仰する気にならない」と言います。
 「悪い人」といっても、悪い考えに染まった人、悪い癖を持った人、自分で気付かずに悪業を犯す人などさまざまです。
 釈尊は、現代の世相を「五濁悪世」と予言しました。五濁とは劫濁(社会・環境に悪い現象が起きる)煩悩濁(瞋りや貪りなどの悪心にとらわれた本能の迷い)衆生濁(人間そのものの濁り)見濁(思想や考えの乱れ)命濁(生命自体の濁り、人命軽視など)をいいます。
 たしかに現代社会は科学技術の発展とは逆に、人間性は歪曲され、貧困になっていますし、社会全体の混迷と汚染はますます深刻になっています。まさしく釈尊の予言どおりの世相になっています。
 社会も時代も、そして個々の人間まで汚染されつつある現代は、悪で充満しているといっても過言ではありません。そのような中で、健全な人生を築くために発心して信仰の道に入っても、始めのうちは過去からの宿習や因縁によって、また縁にふれて悪心を起こしたり、他人に迷惑をかける人もいるかもしれません。
 また世間で罪を犯した人が、最後の更正のよりどころとして信仰を持ち、努力することも宗教の世界なればこそ当然あります。
 このような場合でも、正しい宗教によって信仰を実践していくうちに、悪い性を断ち切り、煩悩を浄化し、六根清浄になっていくのです。日蓮大聖人は信心の功徳について、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(御義口伝・新編一七七五)
と仰せです、すなわち正しい教えである南無妙法蓮華経を信じ唱える者は、必ず六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のすべてが清浄な働きになると教えているのです。
 信仰の正当性を知るために大切なことは、それを信ずる人の姿を見て判断するのではなく、信仰の対象である本尊や教義の正邪をもってその価値を決しなければならないのです。釈尊は、
「法に依りて人に依らざれ、義に依りて語に依らざれ」
と説いています。
 信仰をしている人を部分的な表面や風評をもって批判することは誰にでもできるでしょう。しかし批判者にはそれ以上に得るものはなにもないのです。むしろ、正法の信者を誹謗するという大きな罪を作っているかもしれません。
 一方、正しい信仰を根本として、過去の悪業や弱い自分と闘いながら仏道に精進している人は、当初は恥しい思いをするかもしれませんが、将来必ず目標に到達し、真実の幸福境涯を築き、周囲の信頼と尊敬を集めることができるのです。
 もし万が一にも、正しい信仰を持ちながら平気で悪事をなすならば、その人は仏法に疵をつける罪によって仏罰を受けるでしょう。しかしそれもまた、その人を善導するための仏の慈悲のあらわれであり、いかなる人も必ず正しい人生を歩むようになるのです。

【折伏実践のために】

信仰の正当性を決める本尊の正邪
 正しい信仰を求める場合、信仰している他人の欠点や悪い一面だけを見て、だから自分は信仰をしない、という判断は間違っています。
 正しい信仰は、本文にもあるように、本尊や教義の「正邪」をもって決めるべきものです。
 正しい信仰を求めている人は、自分の抱えている様々な悩みや苦しみを何とか解決しようと思って入信します。
 しかし、入信したとたんに、人格がよくなり、すべての悩みが解決するという訳にはいきません。なぜならば私たちは、過か去こ世せに積んだ不幸の原因となる謗法ほうぼう(正法に背そむくこと)や煩悩ぼんのう、罪業ざいごう(罪悪ざいあくの行い)が、自分の生命に罪ざい障しょうとして刻きざみ込まれているからです。
 正しい真実の信仰を持つならば、謗法・煩悩・罪業があったとしても、信仰を続けていく中で、信仰の功徳によって過去の罪障を消滅して、必ず幸せになっていくのです。
 
 不幸をもたらす「煩悩の悪」
 「自分は悪人ではない」と思う人々が多く存在するようです。しかし、そのような人の心の中にも、実は罪を犯し、悪行為をしてしまいかねない「煩悩」があるのです。この煩悩の問題を解決し、人じん格かくを向こう上じょうさせ幸福な人生を送ることも、正しい信仰を求める理由なのです。
 大聖人様は、
「末法の世は、貪とん欲よく、瞋しん恚に、愚癡ぐちの三毒さんどくの酒に酔って、臣しん下かが主君に敵対し、子が親を軽しめ、弟子が師匠を侮あなどることも少しも珍しいことではない(趣意)」(御書 一一八二㌻)
と仰せです。
 この御文中の「貪欲」とは、貪むさぼりのことですが、私し利り私し欲よくの心、自分だけが得とくをしたいという、利り己こ的な貪りの状態をいいます。この欲望には際さい限げんがありません。一つの物を得えるとそれだけで満足することなく、さらに欲よく張ばりの心が生じてくるのです。
 同時に、「物もの惜おしみ」の心が次第に強くなり、貪欲によって人間同士が争うことになります。
 この物惜しみは、自分の物を他人と分かち合うことを非常に嫌う状態のことです。これは自分のものだと、いちいち喧けん嘩かになるわけです。こうした物惜しみの感情が強いと、社会関係や人間関係がうまくいかなくなり、不幸な人生を送ることになるのです。
 それでは幸福になるために「貪欲」をなくしてしまえばいいのかというと、そうではありません。
 人間が生きる上においては、意い欲よくや向上心といったよい意味の欲望は必要です。自分の利益だけを求めるという自じ利りだけの教えではけっして幸福にはなれないということです。
 自じ利り利り他たの心を育てていくのが「貪欲」を変える一つの方法なのです。
 自分と共に周りの人も同じように幸せになって欲しいと思う、自利利他の心が大事なのです。
 つまり「貪欲」をなくすのではなく、貪欲の力を正しい方向に変えていくのが大だい乗じょうの教え、特に法華経の信心です。
 正しい信仰をする以前は、利己的で、欲張りな不ふ善ぜんの人であっても、この法華経の信心によって、自利利他の心が成長して、自じ他た共ともに幸福になれます。
 
 「煩悩即菩提」こそ大善の道
 世間の人は、誰もが幸福を求めていますが、不幸や悩みの原因が謗法や煩悩にあることを理解していません。
 人間を不幸にする原因は、貪欲のほかに「瞋いかり」「愚癡」等の煩悩があります。仏法では「煩ぼん悩のう即そく菩ぼ提だい」という大だい善ぜんの道を説きます。これは煩悩と菩提は本質的に一体のものであるということです。
 渋しぶ柿がきを例たとえにすると、渋柿はそのままでは渋しぶ味みがあって食べられませんが、その渋柿を天てん日ぴに干ほせば渋味がなくなり、甘みが出てきます。甘くて美味しい干し柿になります。
 人間の煩悩も、甘くなる渋柿と同じように菩提に変えることができるのです。煩悩具ぐ足そくの凡ぼん夫ぷの身が、本質を変えることなくそのまま菩提の身となって幸せになることができるのです。
 ただし人間の三毒は、自分の力だけでは容易に変えることはできません。渋柿を天日に干すように、仏様の慈じ悲ひに浴よくし、その中で正しい御本尊を信じ、南無妙法蓮華経の御題目を唱えることが大事です。そうすれば、その功徳の積み重ねによって、凡夫の三毒の心がそのまま、仏様の三徳の境界に変わり、幸福を得ることができるのです。
 日蓮正宗を信仰している私たちは、自他共に真の幸せとなる「成仏」を求めて日々精進しています。折伏対象者に対しても、表面的な「善悪」の判断で正しい信仰に反対するのではなく、正しい信仰を実践して実際に仏法の功徳を体験していくことが大事である旨をしっかりと話して折伏してまいりましょう。

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管理人

和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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