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七五三祝いはどこでー神道・民間信仰

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 諸宗教破折2
 千歳飴を持ち、きれいな着物で着飾った子供たちを目にするこの時期、子や孫が七五三の年齢に当たっている家族は、着物の着付けや写真の予約、そしてお参りはどこへ行こうかなどと、お祝いの準備に忙しい。
七五三祝いとは
 現在のように、三歳の男女児、五歳の男児、七歳の女児の祝いとして十一月十五日に行われるようになったのは、江戸時代の中期と言われている。
 かつて三歳の男女の祝いは、それまで剃っていた髪を伸ばし始める「髪置の式」が行われた。
 また五歳の男児の祝いは、大人と同じ装いをする「袴 着の式」。
 そして七歳の女児の祝いでは、着物に直接縫い付けてある、帯代わりの紐を取り除く「帯解きの式」が行われ、氏神に参詣したのが七五三祝いの始まりとされている。
 このような成り立ちから、現在では、我が子の健やかな成長を願って、有名な神社に出向いて祈祷をしてもらいたいという親が多いようだ。
 コロナ禍で分散傾向ではあるものの、全国的に見て多くの人出が見込まれるのは、やはり明治神宮や太宰府天満宮をはじめ、伏見稲荷大社、住吉大社、鶴岡八幡宮、熱田神宮、氷川神社などの神社が主であろう。
 とはいえ、かわいい我が子の成長を本気で願う親ならば、それを託する対象も、よく吟味してしかるべきである。
 何に祈願してる?
 ちなみに東京都渋谷区にある明治神宮には、国民の恋慕の想いから明治天皇と昭憲皇太后が御神霊として祀られている。 また、福岡県太宰府市にある太宰府天満宮には、学問の神として菅原道真が祀られている。果たして、これらの対象はその願いを叶えるに値する神であるのかと言えば、これらは単に歴史上の著名な人物を神仏へと昇格させて崇めているに過ぎない。仏法の眼をもって見れば、それらの人物も、所詮は己の煩悩すら解決できない一介の凡夫である。それをもって人々の願いを叶えてくれる神であると考えるのは、全くの誤りであると言えよう。
 また、京都市伏見区にある伏見稲荷大社には、欽明天皇の即位にまつわる『日本書紀』の記述に登場する、キツネともオオカミとも知れぬものを神の使いとして重んじている。 いずれにせよ、所詮は人間より境界の低い畜生である。 わざわざ低俗な畜生を拝むならば、感応道交の理の上から自らが畜生に同ずることになり、人格を低落させることになるのである。
 さらに大阪市住吉区にある住吉大社には『日本書紀』等に出てくる底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后が祀られ、神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮には、応神天皇・比売神・神功皇后、名古屋市熱田区にある熱田神宮には、
天照大神等の神々、さいたま市大宮区にある氷川神社には、須佐之男命・稲田姫命・大己貴命が祀られているが、これらはあくまで神話上の神に過ぎず、これらが人々を救うことなどできようはずもない。
 ここに列挙した以外の神社についても、その内容はおおむね推して知るべしであろう。
正法の寺院に詣でよう
 そして最も大事なことは、これらの神社は人々を救う力がないばかりでなく、日蓮大聖人が『立正安国論』に、
「正法の法味に飢えた神々は天上に帰り、空になった神社には悪鬼魔神が棲みついて種々の災難を起こしている(趣
意)」(御書 234ページ)
 と仰せのように、正法に背く結果として、現今のコロナ禍の如き三災七難が起こっているという現実を、よく知ることである。
大聖人が『四条金吾殿御返事』に、
「仏法と申すは道理なり」 (同 1179ページ)
と御教示のように、正しい宗教とは、普遍妥当性を有した、道理に適った教えでなくてはならない。
 無上の宝である我が子の成長を真に願うのであれば、悪鬼魔神が巣食う神社に詣でるのではなく、文証・理証・現証の上からも末法の正法たる大聖人の教えを奉ずる日蓮正宗の寺院に参詣して、祈念を願うべきである。 

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第一節 今回の会則改変について

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 大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす―矛盾のスパイラルにおちいった創価学
 創価学会は、従来の会則(平成十四年改変)のうち、教義条項にあたる、 
「第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」 (聖教新聞・平成一四年四月一日付)
との条文を、今回の改変で、
「第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」 (本書137頁参照)
としました。
 すなわち、信ずる対象について、それまでの条文にあった「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」の文言を「根本
の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」と変え、「大御本尊」という言葉を抹消しました。
 これをもって、会長の原田稔は、
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(本書139頁参照)
と宣言したのです。

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会則改変の流れ 

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はじめに

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 大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会
 今般、創価学会は会則を改変し、その説明として聖教新聞紙上に「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と発表しました。

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 これは、創価学会の前身である創価教育学会が昭和五(一九三〇)年に設立されて以来、八十数年にわたって会員が等しく信仰の対境として尊崇してきた宗祖日蓮大聖人弘安二年十月十二日所顕の本門戒壇の大御本尊を放棄することを意味します。
 信仰の世界において、礼拝の対象となる本尊は最も重視されなければなりません。
 今回、創価学会が行った本尊義の改変は、教団の存立基盤を揺るがし、八十数年の歴史を覆す大事件です。
 日蓮大聖人を御本仏と立てながら、大聖人出世の本懐たる大御本尊を放棄するという致命的な過ちを犯した創価学会は、それを繕うため、いくつかの異説を唱えざるをえない状態に至りました。
 まさしく創価学会は、はてしない矛盾のスパイラル(らせん状の進行)におちいったと言えましょう。
 本書は、創価学会首脳部に誑惑される学会員を目覚めさせるため、会則を改変したことに伴う創価学会の本尊義と、それを言い繕うための邪説を破折するものです。
 本書によって、迷える学会員が一人でも多く、本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺の正法に帰依することを祈ってやみません。
         日蓮正宗宗務院 

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大御本尊への信仰を捨てた創価学会をただす―矛盾のスパイラルにおちいった創価学会

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はじめに

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第一章「大御本尊は受持の対象にはしない」との邪義を破す

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第一節 今回の会則改変について
第二節 日蓮大聖人の出世の本懐を捨てる大罪
第三節 人法一箇(体一)の法義に背く大罪
第四節 御歴代上人の御指南に違背する大罪
 日應上人  日亨上人  日開上人  日昇上人  日淳上人  日達上人

第五節 歴代会長の指導との矛盾
第六節 教義・信仰基盤の崩壊

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第二章 大御本尊放棄を言い繕うための邪説を破す

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第一節 「御本尊を創価学会が認定する」という邪説
  ①凡夫集団に御本尊を認定する資格はない
  ②「創価学会は広宣流布を推進する仏意仏勅の教団」という妄言
第二節 創価学会の「三大秘法説」を破す
  ①「三大秘法を信ずる」とは観念的信仰
  ②一大秘法抜きの三大秘法は邪説
  ③「文字曼荼羅は等しく本門の本尊」という邪義
第三節 「これまでの本尊観は世界広布を阻害する」との邪説
  ①御遺命の戒壇を否定する大罪
  ②根本の御本尊」と「御書写の御本尊」との立て分けを否定する大罪
  ③「慈折広布の御本尊」 (創価学会常住御本尊)について
第四節 創価学会の信仰の誤り
  原田会長は、「受持即観心」について説明するなかで、次のように述べています。
「御本尊の力用は、自行化他の実践があるところに発揮されるのであります。大聖人の御本尊は、『法華弘通のはたじるし』すなわち民衆救済のための御本尊であり、広宣流布のための御本尊であります。御本尊は広宣流布の誓願、信心で拝してこそ御本尊の力用が発揮されます」 (本書139頁参照)
 この説明から、創価学会が、大御本尊を放棄したことによって、御本尊よりも衆生の信行を主体とするという、本末転倒の信仰論を主張し始めたことがわかります。
①正境なくして利益なし
②言葉のみの広宣流布をかかげる創価学会

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第三章 「大石寺は謗法の地」との妄言を破す

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第一節 総本山大石寺は最勝の地

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第二節 日蓮大聖人以来の血脈は厳然

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第四章 会則改変の経緯

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ここで、創価学会規則の制定および創価学会会則の制定と改変について、その経緯に触れておきます。

第一節 創価学会規則と創価学会会則の制定

第二節 「感情や歴史的な経過を踏まえ」との欺瞞

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むすびに

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日蓮正宗は日蓮大聖人の教えを正しく伝える唯一の教団

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広宣流布に向かって大前進する日蓮正宗

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10月度広布唱題行の砌

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 日如上人猊下お言葉
 本日は、十月度の広布唱題会に当たり、皆様方には諸事御繁忙のところ出席され、まことに御苦労さまです。
既に皆様も御承知の通り、今、新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言は解除されたとは言え、いまだ予断を許さない状況が続いておりますが、私どもは、なお一層、講中一結・異体同心して題目を唱え、折伏を行じ、安穏なる仏国土実現を目指して、妙法流布に邁進していかなければならないと思います。
大聖人様は『唱法華題目抄』に、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。 故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の緑と成すべきか。然れば法華経を説いて謗緑を結ぶべき時節なる事争いひ無き者をや」(御書 231ページ)
と仰せであります。
 すなわち、今日、末法の本未有善の衆生がに対しては、強いて妙法を説き聞かせて「毒鼓の縁」を結ばせるべきである。つまり「謗縁」を結ばせる時であると仰せられているのであります。
「毒鼓の縁」とは、既に皆様も御承知の通り、涅槃経に説かれている話で、 毒鼓とは毒薬を塗った太鼓のことで、その太鼓をたたくと、その音は聞こうとしない者の耳にも届き、聞いた者は皆、死ぬと言われているのであります。これは、謗法の衆生に対して法華経を説き聞かせることは、たとえ相手が聞こうとする心がなく反対しても、これを耳にすれば法華経に縁することとなって成仏の因となり、やがて逆縁によって成仏得道できることを 毒鼓 、すなわち毒を塗った太鼓に誓えているのであります。
 また「謗縁」も逆縁と同じ意味で、法華経をいったんは誹謗しても、それが縁となり、ついには成仏することができることを言うのであります。
 よって、大聖人様は『上野殿御返事』に、逆縁成ムについて次のようやに仰せであります。
「昔、インドに非常に嫉妬深い女人がいて、 夫を憎むあまり、ことごとに当たり散らし、 家の物を壊すなど荒れ狂い、その上、あまりの腹立たしさに、怒りを露わにして、亭主が毎日読んでいた法華経の第五の巻を両足で散々に踏みつけたのであります。その後、当然の如くの女人は地獄に堕ちましたが、法華経を踏みつけた両足だけが地獄に入らず、獄卒が杖をもって打てども、どうしても両足だけが地獄に堕ちなかった」(同 1358ページ趣意)
という話であります。
 これは同抄に、
「法華経を踏みし逆縁の功徳による」(同1359ページ)
と仰せのように、両足で法華経を踏みつけたことが逆縁となって、地獄に落ちなかったということであります。つまり、成仏得道のためには、たとえ逆縁であっても法華経に縁することが、いかに大事であるかを教えられているのであります。
 されば大聖人様は『法華初心成仏抄』に、
「とてもかくても法華経をて強ひて説き聞かすべし。信 ぜん人は仏に なるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同1316ページ)
と仰せられ、とにかく謗法の者に対しては根気よく下種折伏を続けていくことが大事であり、たとえ反対されてもそれが「毒鼓の縁」となって、やがて入信に至ることができるのであります。
 特に今、末法は謗法が充満し、ために多くの人々が知らず知らずのうちに悪縁に誑かされ、邪義邪宗の害毒によって不幸の境界から脱することができずにいます。こうした人々を救済していくためには、正像過時の如き摂受ではなく、破邪顕正の折伏をもってするのが最善であり、折伏こそ末法の一切衆生救済の最高の慈悲行であります。
 なかんずく、昨今、緊急事態は解除されたとは言え、新型コロナウイルス感染症による騒然とした様相を見る時、私どもは今こそ、持てる力のすべてを出して、一人ひとりの幸せはもとより、全人類の幸せと全世界の平和実現のために一天四海本因妙広宣流布達成を目指して、断固として破邪顕正の折伏を実践していかなければなりません。
 どうぞ皆様には、異体同心・一致団結して、全力を傾注して折伏を行じ、晴れて仏祖三宝尊の御照覧を仰がれますよう心からお祈りし、本日の話といたします。

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管理人さんへ

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管理人さんへ

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思うこと

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Re: 魂の学び

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魂の学び

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